あらすじ
「手帳の角で顎のあたりをガリガリと擦ってやりたい。けれど——」
文房具卸会社に勤めて八年になる榎本(三十歳)は、極度の猫好きでありながら、一度も猫を飼ったことがない。
責任、匂い、壁の傷、そして「家で猫を飼っている」という世間の雑談。頭の中でリスクを計算するあまり、道端で猫を見かけても素通りする日々を送っていた。
お盆休み最後の夕方、クーラーで冷えた部屋を抜け出した榎本は、耳の欠けた一匹の茶トラ猫と出会う。
誘われるように後を追い、たどり着いたのは錆びた金網で囲まれたため池の跡地。草むらの影には、母猫に抱かれた幼い子猫たちがいた。
夕日に透ける細いひげ、小さな呼吸、手のひらに冷や汗がにじむほどの愛おしさ。
金網を固く握りしめた榎本が、葛藤の末に指を離したとき、夕方五時のチャイムが街に響き渡る。