あらすじ
名前を呼ばれた記憶が、ほとんどない。
フィオナは十九年、実家の犬舎で六頭の犬を育ててきた。合図の順も、犬ごとの間合いも、すべて彼女の頭の中にある。それを紙に書けと言われたことは、一度もない。
家族はその働きを、娘の趣味と呼んでいた。
婚約はこの国では、家と家が持ち物と人手を出し合う契約になる。だから紙を作り直すより、婚約する娘だけを入れ替えるほうが早い。フィオナはそうやって三度、妹に差し替えられた。
三度目の朝、彼女は父に一つだけ願い出る。目録に値なしと書かれた犬を、一頭ください。
この国の犬と馬は、人の息と匂いから感情を読み取る。焦った人間が近づけば、群れは締まらない。怯えた人間が先に立てば、犬は羊より先に逃げる。
誰もが知っていて、誰も技術にしていない事実だった。
声が小さく、社交ができないと言われ続けた娘。その欠点は、感情を外へ出さない性質から来ている。そしてそれは、犬を動かす力とまったく同じものだった。
麓の宿場で、フィオナは暴れかけた馬の前に片膝をつく。何も言わず、掌を下げ、動かない。四十秒。
それを数えていた男が、値段の話から声をかけてくる。
同情ではなく、雇用として。
彼女の言葉が初めて紙に書き取られたとき、フィオナはまだ気づいていない。それがどこまで届くものなのかを。
働きに値がつく場所で、彼女は何を最初に取り戻すのだろうか。