あらすじ

敢えて確認するまでもなく自明なことだが、童貞のまま一生を終えたことで有名なイマニュエル・カントは、童貞であるにもかかわらず、「神」の存在をある種の「作業仮説」として想定するなどという極めて偉そうな真似に手を染めている。本当の意味で心の底からの無条件の衝動に従う形で行動すること、すなわち「義務」として「最高善を促進する」ことを実践するためには、神の存在を「根拠」として事後的に要請するよりほかないということだ。 偉そうなことを言いたいのであれば、まずセックスをしてからにしてくれという正論(なぜならセックスをしたことのない人間は、本当の意味で「他」を知ることができず、どこまで行っても強固な「自」の牢獄に囚われたままなのであるから。ソースはこの私)は措いておいて、では本当にカントの言う通り、「神」はただ想定されるに過ぎない存在なのか。 試しに「年神様」のお話を参照してみよう。 なぜかは知らないが私の許可を得ることもせずに「神様」とやらを自称しているらしいその何者かは、こちらが頼んだわけでもないのに年越しの時を狙って人間の家を一軒一軒回り、「年」を配って回るのだそうだ。要するに、暇で暇で仕方がないということなのだろうが、どうせやるならこっそり誰にも知られずやればよいものを、その様子をわざわざ人間に目撃させ、後世に伝えさせているところには確かに「神」レベルの豪胆さを感じなくもない。 だがしかしもちろん、それはあくまで「伝承」に過ぎない。 現実は暗く厳しく、むしろ「神はなぜ何もしてくれないのか?」という不満がそこら中に渦巻いている。磔にされた挙句、今際の時において「エロイエロイレマサバクタニ」とかいう、街中で発したら通報間違いなしの奇声を大声で叫ぶという生き恥を晒してなお、神から直接的な加護を賜ることができなかったイエス・キリスト様を想起されたい。それはまさしく同様の艱難辛苦に四六時中襲われ続けている現在過去未来における全世界の全ての生き物の似姿である。 つまり「神」との謁見というのは、本来現世では決して叶うことのないイベントのはずなのだ。 しかし結論から先に申し上げてしまえば、「神」は私の前に確かに出現した。 本エクリチュールはまさしく、その「神」についての、記録である。

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小説を読もう2026/08/17
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