あらすじ
「人という字は、二人の人間が支え合ってできている」──誰もが一度は、そう教わる。
だが、本当にそうだろうか。
近世文学を専攻する大学院生・吉田圭介は、指導教員の書庫を整理していた深夜、いちばん奥の箱の底から一冊の小冊子を見つける。題は『字影秘録』。虫食いだらけのその手記には、「人」という字の、もう一つの成り立ちが記されていた。
――それは、支え合う二人の姿などではない。ひとりの人間が深く腰を折り、前のめりに歩む――
では、その背に、何が存在するのか。その姿を形作るものは……。
馬鹿げた怪異譚だと嗤いかけた圭介は、しかしその日を境に、見慣れたはずの街が一変したことに気づく。すれ違う人々の背に、黒い「何か」がのしかかっている。乾いた木の実を噛むような、かちり、という音を立てながら。
一度「識って」しまえば、もう見なかったことにはできない。手記は警告していた。決して、そのものと視線を合わせてはならない。そして、己の呼吸と鼓動を、あの音の拍子に近づけてはならない、と。
静かに、しかし確実に、日常が軋みはじめる。やがて圭介は、自分の胸の内に、聞き覚えのないもう一つの拍動が忍び込んでくるのを聞く――。
文字の古層に眠る土着の恐怖と、識ることそのものが呪いとなる、逃れられない伝播の物語。
さて。あなたのその鼓動は、果たして、ひとつだろうか。