あらすじ
〈 あらすじ〉
かつて“Zero”の名でダークウェブに君臨した天才ハッカー・鷹野蓮。3年前、ある依頼をきっかけに友人を失い、二度とキーボードには触れないと誓って姿を消した。今は都内の複合ビルで、誰にも気づかれることなく清掃員として静かに生きている。
ある夜、蓮が担当するビルに本社を置く一之瀬グループが、正体不明のハッカー集団「ネメシス」にシステムを完全掌握される。犯人が求めるのは金ではなく、社長令嬢・一之瀬冴子が握る亡き父の秘密データだった。
警察も手が出せない密室状態の中、清掃員として現場に居合わせた蓮だけが、犯人の手口にかつての自分の教え子の癖を見抜いてしまう。隠していた実力と、もう関わらないと決めていた世界。冴子に“掘り起こされた”蓮は、再びキーボードに指を置く。
〈登場人物 主役〉
鷹野蓮(たかの・れん)、28歳
元世界ランク1位のハッカー“Zero”。友人の死をきっかけに引退し、清掃員として匿名の日常を選んだ。無口で目立たないが、観察眼と手先の器用さは隠しきれない。冴子に正体を見抜かれてから、少しずつ心を開いていく。
一之瀬冴子(いちのせ・さえこ)、25歳
一之瀬グループ社長令嬢。亡き父の跡を継ぐべく奮闘中だが、経営よりも現場主義。清掃員である蓮を“ただの使用人”として見ない観察力と行動力を持つ。ネメシスが狙うデータの意味を知る唯一の人物。
シグマ(ネメシスのリーダー)
蓮のかつての“教え子”。蓮に見捨てられた(と思い込んでいる)過去を持ち、彼への歪んだ執着と憎しみが動機の核。
〈脇役〉
久我原充(くがはら・みつる)、35歳——一之瀬秘書。亡き社長時代から仕える古参社員。冴子が蓮を頼ることに強く反対する保守派。実は自身も過去に何か隠している。
皆本詩織(みなもと・しおり)、29歳——蓮の元同僚。“Zero”時代のチームメンバーで、今はセキュリティコンサルタント。蓮の生存を知る数少ない人物。
桐生誠(きりゅう・まこと)、42歳——サイバー犯罪対策課の刑事。蓮の不自然な知識レベルに気づき始める。
田村(たむら)、50代——ビル管理会社の清掃員仲間。蓮の“普通の日常”を象徴する人物。
結城尚(ゆうき・なお)——蓮の海外時代の親友・右腕的存在。故人。物語開始時点では既に他界しており、回想や他者の証言を通じて存在が明らかになっていく。
久我原充(くがはら・みつる)、35歳——一之瀬秘書。亡き社長時代から仕える古参社員。冴子が蓮を頼ることに強く反対する保守派。実は自身も過去に何か隠している。
皆本詩織(みなもと・しおり)、29歳——蓮の元同僚。“Zero”時代のチームメンバーで、今はセキュリティコンサルタント。蓮の生存を知る数少ない人物。
桐生誠(きりゅう・まこと)、42歳——サイバー犯罪対策課の刑事。蓮の不自然な知識レベルに気づき始める。
田村(たむら)、50代——ビル管理会社の清掃員仲間。蓮の“普通の日常”を象徴する人物。
結城尚(ゆうき・なお)——蓮の海外時代の親友・右腕的存在。故人。物語開始時点では既に他界しており、回想や他者の証言を通じて存在が明らかになっていく。
《 プロローグ:帰国 》
成田に降り立った瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。あの夜、冷たいサーバールームで感じていた緊張とは、まるで別世界だった。
入国審査の列は、どこかのんびりとしていた。並んでいるスーツ姿の男たちも、キャリーを引いた家族連れも、蓮がなぜ日本に帰ってきたのか、誰も知らない。日本の警察に指名手配されているわけでもない。それでも、ふと背後から何かに追われている気配がして、思わず振り返った。
その時、ポケットのスマートフォンが一度だけ震えた。画面には、暗号化されたメッセージアプリの通知が浮かんでいる。
「今、何処にいる」
ただそれだけの短いメッセージだった。だが、誰からのものかは分からない。
「悪いが俺はもう関わらない。もう何もかもやめたんだ」
そう返信しようとして、指が止まる。返事をすれば、日本に着いたことをわざわざ相手に知らせることになる。蓮は画面を閉じ、電源を落とした。
身代わりのように現場に残った結城が拘束され、その後“事故”という名目で獄中死したという一報を、蓮が知ったのは、この日本への逃走の道中だった。
《 序章:静かなる清掃員 》
夜11時、静まり返った一之瀬グループ本社ビル。
蓮は、フロア27の窓ガラスを黙々と拭いていた。指先に染み付いた洗剤の匂い。規則正しい呼吸。頭の中は空っぽに近い——それが、この3年間で身につけた唯一の“平穏”だった。
エレベーターホールの照明が、ふと一瞬だけ明滅した。
蓮の手が止まる。
気のせいだ、と自分に言い聞かせようとした瞬間、フロア全体の照明が落ちた。非常灯だけが赤く廊下を照らし出す。どこかでセキュリティゲートが独りでに解錠する電子音。エレベーターが、誰も呼んでいないのに1階から動き出す。
——侵入だ。それも、素人の手口じゃない。
蓮の背筋に、久しく忘れていた感覚が走った。手が、勝手にモップを置いていた。
「……何をしてるんですか、こんな時間に」
背後から声がした。振り返ると、非常口の扉のところに、コートも羽織らずスーツ姿のまま立ち尽くす女——一之瀬冴子だった。顔は青ざめているが、目だけは尋常でない光を宿している。
「お客様は避難してください」蓮は感情のない声で言った。「今すぐ、下の階へ」
「無理よ」冴子は苦い笑みを浮かべた。「エレベーターも階段も、全部ロックされてる。誰かが、このビルを丸ごと乗っ取った」
蓮は、廊下の奥の警備員用モニターに目をやった。画面には見慣れないコードが流れている。3年前、自分がよく書いていたのと同じ癖のある構文——インデントの取り方、変数の命名規則。
指先が、震えた。
「……嘘だろ」
その呟きに、冴子が振り向く。
「何か、分かるの?」
蓮は答えなかった。ただ、モニターの前に膝をつき、震える指をキーボードに乗せた。3年ぶりに触れる感触が、まるで別人の手のように馴染んでいくのを感じながら。