あらすじ
小学生の冬、高橋修司は親戚の酒席で、叔父たちに煽られるまま初めてビールを口にした。
苦くて、臭くて、その夜には吐いた。
――二度と酒なんか飲むものか。
そう決めたはずだった。
それから年月が過ぎ、生命保険会社の営業マンとなった修司は、仕事の付き合いの中で少しずつ酒を覚えていく。祝いの席、取引先との食事、同僚との語らい。酒によって人との距離が縮まった夜もあり、いつしか最初の一杯を「まずい」と思うこともなくなった。
やがて酒は、誰かと飲むものから、一人の夜に飲むものへ変わっていく。
良い日にも、悪い日にも。
そして、何もなかった日にも。
三十八歳になったある夜、いつものようにビールを飲んでいた修司は、もう一本買うため玄関で靴を履きながら、不意に少年時代の記憶を思い出す。
あの頃は、誰かに飲めと言われた。
では今、自分に酒を勧めているのは誰なのだろう。
酒をやめる話でも、酒に破滅させられる話でもない。
嫌いだったものが、いつの間にか生活の一部になっていた一人の男が、自分の日常をほんの少しだけ見つめ直す、静かな現代短編。