あらすじ
高梁の地名を歩く
――奥万田――三村元親の最期を見つめた山あいの町
高梁の町を歩いていると、ときどき不思議な地名に出会う。
その一つが「奥万田」だ。
文字だけを眺めると、どこか山深い土地を思わせる。
実際に訪ねてみると、その印象は間違っていない。
伊賀谷川に沿って東へ進み、高砂橋のあたりで伯備線を越える。
そこからさらに伊賀町の坂道を上っていく。
町の風景は少しずつ変わる。
民家が並ぶ坂道の向こうに丘陵が迫り、さらに進むと山の気配が濃くなる。
ここが奥万田だ。
⭐︎「奥」に入っていく感覚
奥万田は、楢井を経て現在の吉備中央町方面へ向かう「楢井坂」の入口にあたる。
江戸時代、この道は「野山往来」と呼ばれた。
松山城下から賀陽郡野山村へ通じる重要な道だった。
しかも、この方向は松山藩にとって防衛上の弱点だった。
だから単なる生活道路ではない。
軍事上も重要な道として扱われていた。
道は人を運ぶ。
同時に、時代の緊張まで運んでいたのだと思う。
⭐︎野山に置かれた武士たち
幕末の安政四年(一八五七)。
松山藩は野山西村へ藩士を移住させた。
開墾を進めながら、地域の警護にもあたらせるためだった。
これを「野山在宅」と呼んだ。
さらに藩士たちのために「野山学問所」も設けられた。
有終館から狩野剛治が学頭として派遣されたという。
山間の土地にも、武と学問の両方が置かれていた。
奥万田へ続く道は、そんな幕末の空気を今に伝えている。
⭐︎奥万田という名前
ところで、「奥万田」とは何なのだろう。
「万田」という文字から、私はまず小さな田んぼがたくさん並ぶ風景を想像した。
実際、「万田」は「小さな多くの田」を意味するという説がある。
山あいに小さな田がいくつも開かれていた。
そこに「奥」が付いた。
つまり、「山奥に多くの小さな田がある場所」という意味になる。
なんとも素朴な地名だ。
しかし、地名というものは面白い。
一見すると何気ない二文字、三文字の中に、かつての人々が見た土地の姿が残っている。
⭐︎「奥灘」という古い名前
奥万田には、もう一つ興味深い名前がある。
古い記録には「奥灘」と書かれた例があるという。
「灘」といえば、現代では海を連想する。