あらすじ
「前のお熱は、いつでしたか」
診察室でこう聞くと、この世界の母親は、みんな同じ顔をする。覚えていないのではない。覚えておくための紙が、この世界のどこにもないのだ。
私は辺境の村の医者。前世は産婦人科医だった。チートスキルはない。あるのは二千件のお産に立ち会った手と、聴診器と——職業病の記録癖だけだ。
子どもの記録なら、領主様の台帳にある。ただしそれは徴税と徴兵のための帳面で、書いてあるのは生まれた年と性別、父の名前と生死だけ。しかも民には見せてもらえない。
つまりこの世界の親は、わが子の記録を一枚も持っていない。
だから私は、藁紙を綴じて手帳を作った。一頁目に書くのは、生まれた日の天気。
代官様は言う。「台帳と食い違う紙が民の手にあれば、争いのもとになる」
字の書けない母親はうつむく。「あたしには、書けません」
——それでも、記録は親の手にあるべきだと思う理由が、私にはある。
これは、国の台帳と家族の手帳をめぐる、小さな発明の話。