あらすじ
神保町の裏手で小さな古書店を営む「僕」は、雨の日の午後にだけ訪れる、ひとりの女性客と出会う。
彼女が探していたのは、ボードレールの『ラ・ファンファルロ』。フランス語で書かれた原著を迷いなく手に取る、少し風変わりな客だった。
会計の際、「僕」は彼女の右腕にある白く盛り上がった手術痕に目を留める。
その傷は、五年前に別れた恋人・小百合の腕にあったものと、あまりにもよく似ていた。
小百合は本を愛する女性だった。彼女の影響で「僕」も文学にのめり込み、やがて古書店を営むようになった。結婚を目前にしていた二人だったが、ある日、小百合は突然「あなたに言ってもどうせわからない」という言葉を残して彼のもとを去る。
その後、彼女が海に身を投げて亡くなっていたことを知った「僕」は、理由を何も知らないまま、彼女の死を抱えて生きてきた。
そんな「僕」の前に、雨の日になると現れる『ラ・ファンファルロ』の女性客。
彼女は小百合とは似ても似つかない。
それなのに、なぜか「僕」は彼女の仕草や言葉、本の好みに、小百合の面影を見つけてしまう。
雨の日の午後にだけ交わされる、古書店主とひとりの客の短い会話。
その静かな交流の中で、「僕」は忘れたはずの恋人と、もう一度向き合うことになる。
古書と雨、ボードレール、そして身体に残された傷。
過去の恋人が残した「あなたに言ってもどうせわからない」という言葉を軸に、愛する人の痛みを理解することの難しさと、残された者が過去と別れるまでを描いた短編。