あらすじ
真夏の正午、首筋が爆ぜるように冷たい。
認知心理学者・真壁零が故郷の駅に降り立った瞬間、世界から「人間の顔」が消失した。目も、鼻も、口もない。滑らかな肉の絶壁となって一糸乱れぬ歩幅で歩く群衆。脳の相貌認識処理が完全なバグを起こすなか、零の前に現れた幼馴染・宗方結衣の顔だけは、驚くほど鮮明に像を結んでいた。零の指先に蘇る、12年前の雪の夜に握った彼女の薬指の体温。その触覚の記憶だけが、目の前の彼女の顔を形作っていた。
登場人物紹介
* 真壁 零(まかべ れい)
* 「脳が顔の情報を構成できない。ならば、なぜ彼女だけは認識できる?」
* 認知心理学者。徹底した合理主義を盾に、他者の顔が認識できなくなる自らの「脳のバグ(相貌失認)」を冷徹に自己分析しようとする。父の死を機に帰郷するが、かつて自らの記憶から故郷の「顔」を削ぎ落としたのが父の万年筆であった事実を知り、逃れられない血の円環へと引きずり込まれていく。
* 宗方 結衣(むなかた ゆい)
* 「東を向いて、西を見て、南を捨てて……」
* 噤里(くちなし)神社の巫女。平坦な肉の絶壁が行き交う街で、零が唯一その「顔」を鮮明に認識できる存在。12年前の雪の夜、零と指先の温度を交わした。街の忘却の堆積をその身に受容する依り代であり、神事の過熱とともに、その足元から「影」が消え失せていく。
* 浅倉(あさくら)
* 「コンクリートの四角い部屋で、全員が等しく、静かに暮らせばいいんだ」
* 若き市議。近代化という名の別の「因習」に魂をハックされた男。街の不条理な因習を憎み、山を削りすべてをコンクリートで埋め立てる「完璧な均一化」を目指すが、それすらも人間を規格化の檻に縛る同じ病理に過ぎない。自らもその均一な泥の一部になることに救済を感じている。
* 五味(ごみ)
* 「あいつはお前という個人の顔を守るために、東京へ逃がしたんだ」
* 噤里市・市長。何百年もの間、床下の闇(忘却の堆積)に怯え、毎年一定の犠牲を支払うことで街の現状維持(保存)を司ってきた統治者。かつて零の父と共に不条理の解体を試み、挫折した過去の悔恨を、傷ついた一本の万年筆に滲ませる。