あらすじ

夫の高瀬冬真が事故に遭った日、私は手術室の前で九時間、膝をついたまま祈り続けた。  冷たい床に膝をつき、ただ生きていてほしいと何度も何度も願った。看護師さんが三度、椅子に座るよう声をかけてくれたけれど、私は動けなかった。気づいた時には、膝から血がにじんでいた。  幸い、冬真は助かった。  けれど目を覚ました彼は、私が妻だということだけを忘れていた。  宮本美咲のことは、覚えていたのに。  医師から言われたのは、無理に記憶を呼び戻そうとせず、強い精神的負担を与えないように、ということだけだった。  それでも冬真は、私が結婚生活の話をすると頭が痛くなると言った。美咲も「今は冬真が受け入れられる距離を守ったほうがいい」と私を諭した。  だから私は六十三日間、他人になることを覚えた。  自分から近づかない。  妻だと言わない。  毎日病室の外で、彼が会ってもいいと言うのを待つ。  美咲だけは、いつでも彼のそばにいられた。  それでも私は、いつか思い出してくれると信じていた。  六十四日目。  家で一本のボイスレコーダーを見つけるまでは。  再生ボタンを押すと、事故に遭う前の冬真の声が流れた。 「清良に聞かれたら、記憶を失ったことにしてくれ」  窓の外には、私たちが出会った年と同じような雪が降っていた。  私はボイスレコーダーを握ったまま、長い間そこに座っていた。  この六十三日間。  彼が忘れていたのは、最初から私ではなかった。

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カクヨム
カクヨム2026/08/26
  • 現在の作品手術室の前で九時間も膝をついて祈ったのに、目を覚ました夫が覚えていたのは彼女だけでした