あらすじ
夏の朝、森の片隅にある一本の木で、一匹のナナフシが目を覚ます。
人間には見落とされてしまうほど細く、枝によく似た身体。風に揺られる枝の中に紛れながら、ナナフシは静かに一日を始める。
朝の光が葉を照らすと、ナナフシは食べる葉を探してゆっくりと移動する。その途中でアリの行列に出会い、葉の上を飛び交う小さな虫たちを眺める。ナナフシにとって、それらは危険でも仲間でもない。ただ同じ森を生きる、別の生き物たちだった。
昼が近づくにつれて気温が上がる。
ナナフシは動かない。
枝になりきること。それが自分の命を守る唯一の方法だった。
鳥が目の前を通り過ぎても、ナナフシは動かない。やがて鳥は何も見つけられないまま飛び去っていく。
午後になると空が暗くなり、突然の雨が森を包む。
激しい雨に葉が揺さぶられ、ナナフシの身体も大きく振り回される。つかまっていた枝から落ちれば、地面には鳥とは違う危険が待っている。ナナフシは必死に細い脚で枝にしがみつき、雨が過ぎるのを待つ。
夕方、雨が上がる。
濡れた葉の上で、ナナフシは自分とよく似た別のナナフシと出会う。二匹はしばらく同じ枝にとまり、それぞれが静かに葉を食べる。言葉を交わすことも、互いに名前を知ることもない。それでも、同じ風を受け、同じ夕暮れを迎える。
やがて太陽が沈む。
森は昼とはまったく違う姿を見せ始める。鳥に代わって夜行性の虫たちが動き出し、クモが巣を張り、遠くではカエルの声が響く。
ナナフシは暗闇の中をゆっくりと歩く。
その一歩は、人間から見れば取るに足らないほど小さい。しかしナナフシにとって、その一歩一歩が生きることそのものだった。
そして夜が明ける。
昨日と同じ木、昨日と同じ枝、昨日と同じような朝。
けれども、食べた葉は少し減り、雨によって枝の形は変わり、森のどこかでは新しい命が生まれ、どこかでは別の命が消えている。
ナナフシはそれを知ることもない。
ただ、風に揺れる枝の上で身体を伸ばし、再び歩き始める。
人間には「何も起こらなかった一日」に見える。
しかし、その一日は、ナナフシにとって命をつなぐための、かけがえのない一日だった。
静かな森の片隅で、今日もまた一匹のナナフシの一日が始まる。