あらすじ

はじめに、無があった。 無とは、何もないことではない。無とは、何かが「ない」と気づく者すら、存在しないことである。ゆえに、この最初の無は、無とすら呼ばれていなかった。呼ぶ声が、まだどこにもなかったからだ。 暗くはなかった。光がないということは、暗いということではない。暗いと感じる目が、まだなかったからだ。 静かでもなかった。音がないということは、静かだということではない。静けさを聴く耳が、まだなかったからだ。 それは、ただ、在った。名づけようのない、途方もない持続。ディアノール後期の祭司たちは、これを指し示す言葉を、ついに一つしか残さなかった。 ンー。 意味を持たない、一音節。母音とも子音ともつかぬ、震えの前段階。現存する最古の写本——通称『無韻書』——の冒頭には、この一語だけが、羊皮紙の中央に、ぽつりと記されている。 重要なのは、この段階において、「何もない」ということそのものが、一種の完全性を保っていたという点である。何もないとは、欠けているということではない。何も欠けていないからこそ、何もない。この逆説を、後世の宗教哲学者たちは、繰り返し議論の的にしてきた。

連載情報

ウェブ小説

配信言語
カクヨム
カクヨム2026/08/22
  • 現在の作品ARCANE NOMAD Dianor Creation Myth -ディアノール神話大全 -