あらすじ
字が読めないことを隠して、わたしは城壁の落書きを消す下働きをしている。没落した子爵家の娘だと、知られないように。ある朝、消しても消しても翌日にはまた戻る「落書き」——人の名前の羅列を、若い監察官、辺境伯家のクレイスさまに「一字残らず消せ」と命じられて。
けれど、その名前を夜ごと書き直していたのは、墓を持てない戦友たちを弔う、たったひとりの生き残りだった。そして列にぽつりと空いた一席は——わたしの父の、席で。消せと言われた落書きを、わたしは石に彫りはじめる。消しても消えない字は、壁ではなく心に書いてある。血のにじむ指が刻んだものが、辺境伯家が“なかったこと”にした真実を照らすとき、あの日わたしを笑った者たちの顔が、変わる。泣けて、あたたかくて、最後に少しだけ甘い、読み切りです。