あらすじ

御厩透嗣(みまやとうじ)が目を覚ましたのは、九州北部の山中に建つ私立精神療養施設――胎生心理研究院だった。 自分の名前は分かる。 だが、年齢も、職業も、家族の顔も思い出せない。 記憶の中に残っているのは、たった一人の女だけだった。 廻谷まひる(めぐりやまひる)。 夏の海辺で笑ったこと。 古い映画館で手を握ったこと。 二人きりで結婚を約束したこと。 そして婚礼の夜、真昼の細い首を、自分の両手で絞めたこと。 透嗣を担当する精神科医・薬師鼎(やくしかなえ)は、まひるという女性は存在しないと告げる。警察にも戸籍にも、彼女の記録はない。透嗣が抱いている恋愛と殺人の記憶は、長期昏睡と精神的外傷によって作り出された妄想だという。 しかし研究院の夜には、まひるの声がする。 閉ざされた窓の外から、壁の内側から、使われていない院内電話から。 「早く思い出して。 あなたが私を殺す前に」 病棟で出会った少女・終夜水琴(しゅうやみこと)は、自らを「まひるになり損ねた九番目」と名乗る。 水琴は透嗣を、ある日は兄と呼び、ある日は夫と呼び、別の日には父親と呼ぶ。そして透嗣の顔を見つめるたび、懐かしそうに言う。 「また若くなったのね」 研究院の旧病棟には、明治末期から現代までに撮影された患者写真が残されていた。 時代も名前も異なる男たち。 だが、全員が透嗣と同じ顔をしている。 その男たちの隣には、必ず一人の女が写っていた。 廻谷まひると同じ顔をした女。 調査を進める透嗣の前に、十八年前の婚礼殺人事件を追う警部補・神足曜子(こうたりようこ)、失踪した姉を捜す蟻通初音(ありどおしはつね)、研究院の古文書を解読する心理史研究者・斑鳩朔弥(いかるがさくや)が現れる。 彼らがたどり着いたのは、透嗣の祖父とされる精神医学者・御厩胎一郎(みまやたいいちろう)が提唱した、異様な学説だった。 胎恋遺伝説。 恋愛感情は、個人の経験から生まれるものではない。強烈な愛情や執着、嫉妬、殺意は生殖細胞に刻まれ、胎児へ受け継がれる。 特定の物語、匂い、音、顔を、母体を通じて胎児へ与え続ければ、生まれた子供に「特定の人間を愛する心」を作ることができる。 透嗣とまひるは運命の恋人なのではない。 何世代にもわたる実験によって、互いを愛するよう作られた男女なのかもしれない。 やがて透嗣は、研究院地下に保存された婚礼事件の記録を発見する。 過去百年の間に、何人もの花嫁が婚礼の前後に殺害されていた。 一人目からは髪。 二人目からは歯。 三人目からは舌。 その後も、眼球、皮膚、声帯、子宮が失われている。 それらは猟奇殺人の戦利品ではなかった。 歴代の花嫁たちから身体と記憶を集め、一人の完全な「廻谷まひる」を作るための部品だった。 そして透嗣自身の身体にも、異なる年代に施された無数の手術痕が残されていた。 まひるだけではない。 透嗣もまた、過去の男たちの脳、骨髄、神経、記憶を継ぎ足して作られた存在だった可能性が浮かぶ。 二人は生まれ変わっているのではない。 少しずつ身体を取り替えながら、同じ恋愛を百年以上続けている。 透嗣はついに、生きているまひると再会する。 彼女は美しく、優しく、透嗣の記憶にあるすべての思い出を知っていた。 しかし真昼は、自分が何度も透嗣に殺されてきたことも覚えている。 それでも彼女は逃げようとしない。 むしろ透嗣の手を自分の首へ導き、微笑む。 「あなたは私を殺すときだけ、私を間違えない。 だから今度も、ちゃんと私を見つけてね」 まひるが望んでいるのは、透嗣と生きることではない。 透嗣が自分を最も深く愛している瞬間に殺され、その記憶を次代の胎児へ移すこと。 愛が薄れる前に死ぬこと。 忘れられる前に、もう一度生まれること。 透嗣は彼女を救おうとする。 だがまひるにとって、救われるとは、いつか愛されなくなる可能性を受け入れることだった。 死ぬよりも、忘れられる方が怖い。 愛する者を自由にするくらいなら、その心を胎内から作り直したい。 透嗣が研究院の最深部へ進むにつれ、病棟の廊下は円形に繋がり、壁は心臓のように脈打ち始める。 外だと思っていた山も、空も、雨も、巨大な胎内を再現した装置にすぎないのかもしれない。 さらに、透嗣が読んできた診療記録、真昼の日記、胎一郎の講義録には、彼がこれから取る行動まで書かれていた。 記録の章題も、出来事の順番も、殺人の日時も、すべて実験開始前から決められている。 透嗣が自分の意思でまひるを選んだと思った瞬間さえ、計画書には記載されていた。 二人の愛は、どこまでが実験なのか。 植え付けられた愛は、偽物なのか。 誰かに作られた感情であっても、失う苦しみまで偽物と呼べるのか───。

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カクヨム2026/08/06
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