あらすじ

王城の裏庭、まだ手入れの行き届いていない薔薇園の片隅で、二人の子供が向かい合っていた。  第一王子アルディオン・ヴェルシュタットは、まだ七つになったばかりだった。木の枝を剣に見立て、堂々とした様子で胸を張っている。対する許嫁のイザベラ・クロヴィス公爵令嬢は、六つにしてすでに公爵家の令嬢らしい佇まいを見せ、腕を組んでアルディオンを見下ろしていた。  「ボクがキミの王子様になって迎えに来るよ」  アルディオンは得意げにそう言った。幼い頭で思い描く「王子様」とは、絵本に出てくるような、白馬に乗って姫を助けにくる英雄のことだった。  しかしイザベラは、小さな唇を尖らせて首を振った。  「‟王子”じゃ駄目ね。私と婚約を結ぶなら‟王様”にならないと嫌よ」  「え……」  「王子様は、いつかは誰かの臣下になるでしょう? でも私は、誰の下にもつかない人と一緒になりたいの。だから、王様になってから迎えに来てちょうだい」  生意気な物言いに、アルディオンは一瞬むっとした顔をしたが、やがてその小さな胸に、妙な火が灯った。  「わかった。ボクは、王様になってキミを迎えに来る。約束だ」  「ふふ、口だけは立派ね。でも――」  イザベラは、小指を差し出した。  「約束よ。忘れないで」  アルディオンは、その小さな指に自分の小指を絡めた。夕陽が薔薇園を橙色に染める中、二人だけの誓いが交わされた瞬間だった。  その約束を、アルディオンは十年経っても、忘れることはなかった。  十年後。王城の大広間には、王国中の貴族たちが集められていた。年に一度の建国記念の夜会――のはずだった。  「イザベラ・クロヴィス公爵令嬢」  壇上に立ったアルディオンの声が、広間に響き渡った。その声には、かつて薔薇園で聞いたような温かさは、微塵も感じられなかった。  「貴女との婚約を、本日をもって破棄する」  広間がどよめいた。イザベラは静かに壇上のアルディオンを見上げていた。その青い瞳には、動揺の色はなく、ただ深い静けさだけが宿っていた。  「理由を、お聞かせいただけますか」  「貴女は、クラリッサ・エルンバルト辺境伯令嬢を、繰り返し陰湿な手段でいじめていたという報告を受けている。証拠は、既に王宮に集まっている」  その言葉に、集まった貴族の子女たちの間から、押し殺したような笑い声が漏れた。かねてより公爵家の権勢を疎ましく思っていた者たちは、この機を待ちわびていたかのように、扇の陰でひそひそと囁き合っていた。  「まあ、あれほど気位の高い方でしたのに」  「令嬢としての品位に欠ける行いだったと、以前から噂には聞いておりましたわ」  イザベラは、その嘲笑を一身に浴びながらも、表情ひとつ崩さなかった。ただ静かに、深く頭を垂れた。  「殿下のご判断に、異論はございません」  短くそう告げると、イザベラは踵を返し、大広間を後にした。その後ろ姿を、アルディオンはただ黙って見つめていた。何かを言いかけて、しかし結局、言葉を発することはなかった。  大広間を出て、人気のない回廊を歩くイザベラの足取りは、しかし外見の平静とは裏腹に、静かな怒りと悲しみを抱えていた。  角を曲がったところで、彼女は待ち構えていた人物の姿に気づき、足を止めた。  「……殿下」  そこにいたのは、アルディオンだった。先ほどまでの断罪者の顔は消え、そこにいたのは、疲れ果てた一人の青年の顔だった。  「イザベラ、聞いてくれ」  アルディオンは声を潜め、周囲に人がいないことを確かめてから、切実な口調で語り始めた。  「今の国王陛下……いや、父上の治世は、もう限界だ。国庫は貴族たちの私腹を肥やすために食い潰され、地方の民は重税に苦しんでいる。俺は、この国を変えなければならない」  「それは、以前から伺っておりました」  「だが、革命には支持が要る。今の国王派の貴族たち――その筆頭である、クロヴィス公爵家との繋がりを断ち切らなければ、俺を支持する貴族も国民も納得しない。俺が公爵家と縁を切ってこそ、初めて『国王派との決別』が本物だと信じてもらえる」  イザベラは静かに目を伏せた。予想していたことだった。今日この場で、こうして説明を受けるであろうことも。  「つまり私は、その禍根……ということですね」  「すまない」  アルディオンは頭を下げた。王族が、かつての婚約者に頭を下げるなど、あってはならないことだった。だがイザベラは、それを咎める気にはなれなかった。  「エルンバルト辺境伯からの提案だ。娘を正室に迎え入れ、革命後の貴族としての地位と財産を確約すること。それが、辺境伯家が俺を支持する条件だった」  イザベラの脳裏に、幼い頃から親しくしてきた友人の顔が浮かんだ。クラリッサ・エルンバルト。かつて蛮族の侵攻で窮地に陥った辺境伯領に、イザベラ自らが援軍を率いて駆けつけ、救った過去がある。あの時からクラリッサは、イザベラに深い恩義と友情を感じていた。  「クラリッサは、この話を知っているのですか」  「……ああ。反対した。最後まで、お前を裏切ることはできないと」  アルディオンの声が、微かに震えた。  「それでも、俺は決めた。この国を変えるために、俺は……お前を、切り捨てる」  イザベラは長い沈黙の後、静かに微笑んだ。それは、悲しみを押し殺した、しかし芯の強い笑みだった。  「わかりました。殿下のなさりたいことを、私は理解しております」  「イザベラ……」  「ただ一つだけ、お聞きしても?」  「なんだ」  「殿下は……本当に、王様になれますか」  その問いに、アルディオンは一瞬言葉を詰まらせた。それから、まっすぐにイザベラの目を見つめて答えた。  「なる。必ず、なってみせる」  「……そうですか」  イザベラは小さく頷くと、それ以上は何も言わずに、その場を去っていった。  その夜、クラリッサ・エルンバルトは、自室で一睡もできずにいた。  窓の外に広がる夜空を見つめながら、彼女は何度も、何度も、自分に問いかけていた。――本当にこれでいいのか、と。  物心つく頃から、クラリッサはアルディオンに淡い恋心を抱いていた。だが、その隣にはいつもイザベラがいた。凛としていて、賢く、そして誰よりも優しい彼女を見るたびに、クラリッサは自分の想いを密やかに胸の奥へと沈めてきた。  ――イザベラ様には敵わない。それに、お二人は本当にお似合いだもの。  そう思い込むことで、自分を納得させてきたはずだった。実際、あの日、辺境の地が蛮族の襲撃に晒された時、真っ先に援軍を率いて駆けつけてくれたのはイザベラだった。  その光景を、クラリッサは今でも鮮明に覚えている。公爵家秘伝の剣技を修めたイザベラは、自ら陣頭に立ち、押し寄せる蛮族の群れをまるで舞うように斬り伏せていった。深窓の令嬢という世間の評判とはまるで異なる、鬼神のごとき剣捌き。その姿は、後方で震えていた民たちの目に、まるで戦女神のように映ったという。  「イザベラ様がいてくださらなければ、辺境伯領はとうに滅んでいたでしょう」  戦の後、そう語った古参の兵士の言葉を、クラリッサは今も忘れることができない。剣を持てば誰よりも勇猛に、剣を置けば誰よりも優雅に――そんな彼女の姿を、クラリッサは生涯忘れることができない。  ――イザベラ様は、私の恩人。それなのに、私は。  数週間前、父であるエルンバルト辺境伯から告げられた話を、クラリッサは今でも受け入れきれずにいた。  「クラリッサ、お前をアルディオン殿下の正室に据える。革命の後、我が家は貴族としての地位と財産を確約される」  「お父様、そんな……! イザベラ様との婚約は、どうなるのですか」  「殿下が、公爵家と手を切るとおっしゃっているのだ。これは、辺境伯家にとって二度とない好機だ」  「私は、そんなことを望んでいません! イザベラ様は、私たちの恩人です。その方を裏切るような真似は――」  「クラリッサ」  父の声は、有無を言わさぬ厳しさを帯びていた。  「お前の気持ちはわかる。だが、これは辺境伯家の存亡に関わる話なのだ。殿下が革命を起こせば、旧来の貴族社会は大きく揺れ動く。その時、我が家が生き残るためには、この機を逃すわけにはいかない」  クラリッサは、それ以上何も言えなかった。父の言葉には、辺境の地を守り続けてきた者としての、切実な重みがあった。  ――でも、それでも。  大広間での断罪の一部始終を、クラリッサは離れた場所から見ていた。イザベラが淡々と、静かにその宣告を受け入れる姿を見た瞬間、クラリッサの中で何かが崩れ落ちるような感覚があった。  夜会の後、クラリッサは人目を忍んでクロヴィス公爵家の屋敷を訪れた。  「イザベラ様……本当に、ごめんなさい」  クラリッサはイザベラの手を強く握りしめた。その目は真っ赤に泣き腫らされていた。  「私、最後まで反対したの。殿下にも、父にも。イザベラ様を裏切るようなことは、絶対にできないって。でも……」  「クラリッサ、いいのよ」  イザベラは友人の背を優しく撫でた。  「貴女のせいではないわ。これは、殿下が選んだ道。そして、貴女のお父上が国のために判断したこと。誰も、間違ってなどいない」  「でも、イザベラ様は……」  「私は大丈夫。それより、貴女は殿下をお支えしてあげて。革命という大きな戦いを、殿下お一人で背負わせるわけにはいかないもの」  クラリッサは声を上げて泣いた。かつて自分の領地を、そして自分自身を救ってくれた恩人が、こうして静かに全てを受け入れていく姿に、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。  「私……本当は、殿下のことを、ずっと前からお慕いしていました。でも、イザベラ様がいらっしゃったから、その想いは胸に秘めて、お二人を応援することだけを考えてきました。それなのに、こんな形で、こんな形で私が殿下の隣に立つなんて……!」  「知っているわ」  イザベラは、驚くほど穏やかな声で言った。  「貴女が殿下をお慕いしていたことも、それでも私たちを応援してくれていたことも、ずっと前から気づいていたのよ。だから、これでいいの。貴女の想いが、ようやく報われる時が来たというだけのこと」  「そんな……! 私は、こんな形で報われたいわけじゃ――」  「クラリッサ」  イザベラは、友人の頬を伝う涙を、そっと指で拭った。  「いつか必ず、貴女は良い王妃になるわ。私にはわかるの。貴女の優しさと強さがあれば、殿下と共に、この国を良い方向へ導いていける」  「いつか……いつか必ず、お礼を」  「そんなもの、いらないわ。貴女が幸せになってくれれば、それで十分よ」  二人はしばらく抱き合ったまま、言葉もなく涙を流し続けた。  その夜、クラリッサは屋敷への帰路、馬車の中で一人、拳を強く握りしめていた。  ――イザベラ様、私は、貴女の優しさに甘えるだけの存在にはならない。いつか必ず、この恩を返す。どんな形であっても、必ず。  その誓いを、クラリッサは誰にも告げることなく、静かに胸の奥に刻み込んだ。  それから間もなく、クロヴィス公爵――イザベラの父は、娘に静かに告げた。  「イザベラ、お前を修道院へ送る」  「お父様……」  「表向きの理由は、王子殿下に不遜を働いたことへの謹慎処分だ。だが、本当の理由は違う」  公爵は、娘の手を握りしめた。その手は、かすかに震えていた。  「これから、この国は大きく揺れる。革命というものは、必ず血を流す。クロヴィス公爵家は国王派の筆頭として、粛清の対象になるだろう。私は……お前だけでも、その渦の外に置いておきたいのだ」  「私は、お父様やお母様と一緒に――」  「駄目だ」  公爵の声は、厳しくも深い愛情に満ちていた。  「お前が生き延びることが、私にとって唯一の望みだ。修道院ならば、俗世の争いから離れられる。頼む、イザベラ。お前だけは、生きてくれ」  イザベラは、父の目に浮かぶ覚悟を見て、それ以上何も言えなかった。  数日後、彼女は簡素な旅装に身を包み、辺境の修道院へと向かう馬車に揺られていた。窓の外に流れていく見慣れた景色を、イザベラはただ静かに見つめ続けていた。  王都の街並みが遠ざかっていくにつれ、イザベラの胸の中で、これまで気丈に抑え込んでいた感情が、少しずつ溢れ出してきた。  ――私は、これから何を支えに生きていけばいいのだろう。  公爵令嬢としての立場も、婚約者としての未来も、すべてを失った。残されたのは、ただ「生き延びる」という、あまりに漠然とした使命だけだった。  馬車の窓に映る自分の顔を見つめながら、イザベラはふと、幼い日の記憶を思い出していた。薔薇園で交わした、たわいもない約束。あの頃は、まさかこんな未来が待っているとは、夢にも思わなかった。  ――殿下は、本当に王様になれるのだろうか。  その問いに、明確な答えを持てないまま、イザベラは辺境の地へと向かう長い旅路についた。  辺境の修道院は、王都の喧騒とはまるで異なる、静謐な世界だった。  朝は鐘の音と共に目を覚まし、祈りを捧げ、畑仕事や炊事、病人の看護といった日々の労働に身を投じる。夜は再び祈りを捧げ、簡素な寝台で眠りにつく。その繰り返しの中で、イザベラは少しずつ、公爵令嬢としての自分を過去へと押しやっていった。  「ベラ、また眠れないの?」  同室の年若い修道女が、心配そうに声をかけてくることが度々あった。イザベラは、修道院では「ベラ」という簡素な名で呼ばれるようになっていた。  「大丈夫よ。少し、昔のことを思い出していただけ」  「辛いことがあったのね」  「ええ……でも、もう終わったことだから」  そう答えながらも、イザベラの心の中では、まだ何一つ終わってなどいなかった。  二年目に差し掛かる頃、修道院に伝わってきたのは、王国で起きた革命の報せだった。国王が退位に追い込まれ、アルディオンが新王として即位したという知らせに、修道院の人々は驚きを隠せなかった。  「新しい王様は、若くして立派な方だそうよ」  「聞くところによると、随分と苦しい戦いだったとか」  そうした噂話を、イザベラは表情を変えることなく聞いていた。しかし夜、一人祈りを捧げる時間になると、彼女の心は複雑な感情で揺れ動いた。  ――殿下は、本当に王様になった。  嬉しさと、痛みと、そして自分でも説明のつかない喪失感が、同時に押し寄せてきた。彼が王座に就いたということは、あの日の約束の半分が果たされたということだった。だが、もう半分――自分を迎えに来るという約束は、果たされることはないだろうと、イザベラは自分に言い聞かせていた。  ――私はもう、公爵令嬢のイザベラではない。ただの修道女、ベラ。殿下が探すべき人間は、もうどこにもいないのだから。  そう思うことで、イザベラは自分の心を守っていた。過度な期待を抱かないこと。それが、この静かな生活を保つための、唯一の術だった。  三年目に入る頃には、イザベラの心にも、少しずつ穏やかさが戻ってきていた。日々の祈りと労働、そして修道院を訪れる貧しい人々への奉仕が、彼女の心を静かに癒していった。  「ベラ、貴女は本当に良く働くわね」  修道院長がそう褒めることもあった。  「かつては、随分と苦労なさったのでしょう。でも今の貴女は、誰よりも穏やかな顔をしているわ」  「そうでしょうか」  「ええ。人は、失うことでしか気づけないものもあるのよ。貴女は、多くを失った代わりに、多くの人に寄り添う優しさを得たのだと思うわ」  その言葉に、イザベラは静かに頷いた。かつての自分を思えば、遠く離れた場所に来たものだと思う。それでも、心のどこかには、まだあの薔薇園の記憶が、消えることなく残り続けていた。  ――私は、あの日の約束を、まだ信じていていいのだろうか。  信じることは、同時に傷つくことと隣り合わせだった。もし彼が本当に自分を迎えに来なかったとしても、それは仕方のないことだと、イザベラは何度も自分に言い聞かせた。国を治める王という立場になった以上、たった一つの子供じみた約束よりも、優先すべきことは山のようにあるはずだった。  それでも――と、イザベラは祈りの中で、密かに願わずにはいられなかった。もし許されるならば、もう一度だけ、あの薔薇園の夕陽を、彼と共に見てみたい、と。  一方、王座に就いたアルディオンもまた、静かな苦しみを抱えていた。  革命の混乱が収まり、国政が落ち着きを見せ始めても、アルディオンの心は決して安らぐことがなかった。表向きは若く聡明な新王として、国民からの支持を集めていたが、その内側では、常に一つの後悔が渦巻いていた。  ――俺は、イザベラを切り捨てた。  即位してすぐ、アルディオンは密かにイザベラの行方を追わせていた。しかし、クロヴィス公爵家の記録は驚くほど徹底的に消されており、イザベラがどこへ送られたのかを示す手がかりは、ほとんど残されていなかった。  「殿下、これ以上の詮索は、国政に関わることかと存じます」  側近の一人がそう進言したこともあった。しかしアルディオンは、その忠告を聞き入れることはなかった。  「イザベラを探すことは、俺個人の問題だ。国政には関わらせない。だが、これだけは譲れない」  夜な夜な執務室の灯りの下で、アルディオンは古い記録や、公爵家に縁のあった者たちからの証言を集め続けた。革命の指導者として、日中は国政に忙殺されながらも、夜になるとその探索を続ける日々が、何年も続いた。  ――俺があの日、大広間で彼女を切り捨てたことは、正しかったのか。  その問いは、王座に就いた後も、アルディオンの中で何度も繰り返された。国のためだったと、頭では理解している。だが、あの時のイザベラの、静かで悲しげな微笑みを思い出すたびに、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。  新王としての日々は、想像していた以上に過酷なものだった。旧国王派の残党による水面下の抵抗、財政再建のための痛みを伴う改革、そして革命に協力した貴族たちへの論功行賞――一つとして単純な問題はなく、アルディオンは日々、山積する課題に忙殺されていた。  夜遅くまで執務室に灯りが灯る日々が続いた。クラリッサや側近たちが心配して声をかけても、アルディオンは椅子に座ったまま、書類の山から顔を上げようとしなかった。  「陛下、少しはお休みにならないと、お体が持ちません」  「わかっている。だが、俺が弱音を吐けば、この国はまた元の腐敗した姿に逆戻りしてしまうかもしれない。俺には、休んでいる余裕などない」  そう言いながらも、アルディオンの心の奥底には、常に一つの疑問が渦巻いていた。  ――俺は、本当にイザベラが望んだような‟王様”になれているのだろうか。  国民のために正しい政を行うこと、腐敗を正し、貴族と民との均衡を保つこと――それらは確かに成し遂げつつあった。だが、幼い日に誓ったもう一つの約束、彼女を迎えに行くという誓いだけは、いつまで経っても果たすことができずにいた。  「王として立派になることと、一人の人間としての約束を守ることは、別の話なのかもしれない」  ある夜、アルディオンは誰に言うでもなく、そう独り言ちた。国政に忙殺される日々の中で、彼女を探す時間を作ることは、決して容易ではなかった。それでも、その約束を放棄することだけは、アルディオンにとって考えられない選択だった。  ――もし俺が、この約束すら守れないのなら、俺が王座に就いた意味など、いったい何だというのだ。  そう自分に言い聞かせるようにして、アルディオンは限られた時間を縫って、修道院や教会を巡る旅を続けていった。  側近の忠告を振り切り、アルディオンは自ら各地の修道院や教会を巡る「慰問」と称する視察を始めた。表向きは新王としての民情視察だったが、その本当の目的を知る者は、ごく一部の側近だけだった。  一つ、また一つと修道院を巡るたびに、アルディオンの心には焦燥と絶望が積み重なっていった。  ――もしかしたら、もう生きていないのかもしれない。  そんな最悪の想像が頭をよぎることもあった。それでもアルディオンは、探索をやめることはなかった。たとえ見つからなくても、探し続けることそのものが、あの日の約束を守るための、唯一の方法だと信じていたからだ。  三年目のある冬、アルディオンはついに、辺境の小さな修道院にたどり着いた。それは、これまで訪れた中でも、特に人里離れた場所にある、質素な修道院だった。  礼拝堂へ足を踏み入れたその瞬間、アルディオンは、思わず息を呑んだ。  ――イザベラ。  そこにいたのは、簡素な修道服に身を包んだ、一人の女性だった。かつての公爵令嬢としての華やかさは失われていたが、その面影は、紛れもなくイザベラのものだった。  しかし、彼女は静かに顔を伏せ、他の修道女たちに紛れるように、その場を離れようとした。  「そこのシスター」  アルディオンは、思わず声をかけていた。  「……何か、御用でしょうか」  イザベラは声を作り、他人のふりをして振り返った。心臓が、痛いほどに高鳴っていた。  アルディオンはしばらく、じっとイザベラの顔を見つめていた。長い沈黙が流れた。ここで名を呼べば、彼女はどう反応するだろうか。もし人違いだったら――そんな迷いが、アルディオンの口を重くさせた。  「……いや、失礼した。人違いのようだ」  そう言って、彼は静かに礼拝堂を後にした。だが、その足取りは、これまでの探索の中で最も重く、そして同時に、何かを確信したかのような、複雑な色を帯びていた。  それから数か月ごとに、アルディオンは修道院を訪れるようになった。表向きの理由は「地方の慰問」や「教会への視察」だったが、彼が本当に会いに来ているのが誰なのか、修道院長を含む一部の者たちは、薄々気づいていた。  「シスター・ベラ、王様はいつも貴女を気にかけていらっしゃるようだけれど」  修道院長がそう声をかけたこともあった。イザベラは、静かに首を振るだけで、それ以上は何も答えなかった。  「言いたくないことは、無理に聞かないわ。でも、もし何か抱えているものがあるのなら、いつでも話を聞くわよ」  「ありがとうございます。でも、大丈夫です」  イザベラは、その度に他人のふりを続けた。かつての婚約者を名乗ることも、公爵令嬢だった自分を明かすこともなく、ただ静かに祈りを捧げる修道女として、アルディオンと言葉を交わした。  「シスター、この国について、どう思う」  ある日、庭の花壇の手入れをしていたイザベラに、アルディオンはそう尋ねた。  「新しい王様は、良い政をなさっ

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カクヨム2026/08/04
  • 現在の作品婚約破棄された公爵令嬢ですが、王になった元婚約者が約束どおり迎えに来ました