あらすじ
この国には〈言の帳〉という古い帳があります。
金銭を伴わない、ささやかな行為の約束を書き留めておく帳です。面倒なので、もう誰も使いません。
わたしは八年、使い続けました。
婚約者のレオンハルト様が「すぐ行く」とおっしゃるたび、わたしは申し上げました。
「帳に付けます」
「ああ。付けておいてくれ」
「すぐ行く」が百五十六回。ほかにも「今度こそ、一曲踊ろう」「これからは名前で呼ぶ」「雨の日は迎えに行く」。
――八年で、口約束は三百二十二回。一度も、否とはおっしゃいませんでした。
婚約から八年目の、同じ日。あの方はおっしゃいました。
「すまない。君と過ごす時間が、どうしても作れない」
かしこまりました。では、清算をいたしましょう。
従僕が台車を押して入ってまいります。積んであるのは、請求書。三百二十一枚。
「……一枚に、まとめてはいけないのか」
「いけません。約束は、一つずつ、なさったものですから」
お帰りぎわ、あの方は最後にこうおっしゃいました。いつか、この八年ぶんを、まとめて返す、と。
――帳に付けます。
こうして、その日のうちに、三百二十二枚になりました。
帳の定めにより、請求は一日に一件。履行は三日以内。まとめて果たしたものは、認められません。
審査を通ったのは三百十九件。ですから――三百十九日。
婚約が解けても、帳の債務は消えません。
わたしを捨てた方は、これから三百十九日、毎日わたしに会いに来ることになりました。
薔薇を一本。名前を呼ぶ。雨の日に迎えに行く。似合うね、と言う。
どれも、百を数えぬうちに済むことでした。百を数えぬうちに済むことを、八年、していただけなかったのです。
立ち会うのは、王立公証院の監察官ヴェルト様。生まれてこのかた、口約束を一つもなさらない方。
「私は、できることしか申しません」
――そして、審査で落ちた三件。
果たすことのできない約束が、三件だけ、帳に残っております。