あらすじ
大学受験をやり直している十九歳の高瀬悠人は、雷雨の夜、現代の富士市から今川義元が討たれた直後の駿河へ迷い込む。
自転車、スマートフォン、家の鍵。現代の品は持ってきた。けれど、電池も替えの部品もなく、すべて使えば失われる有限の品でしかない。
目の前に広がるのは、悠人が知る時代劇とも教科書とも違う戦国の世だった。田んぼは田んぼに見えず、村は村に見えない。同じ日本語のはずなのに、拾えるのは単語だけ。身分も保証人も所属も答えられず、悠人は敵の間者として拘束される。
頼りになるはずの未来知識も曖昧だった。
「今川義元」「織田信長」「桶狭間の戦い」
現代では誰もが知る名前が、当時の人々には無礼で不自然な呼び方として響く。悠人が知っているのは、後世に整理された勝敗と有名人だけ。事件が起きた正確な日も、場所も、その場で生きる人々の事情も知らない。
そんな悠人を、今川家当主・今川氏真は予言者としてではなく、一人の若者として扱う。
後世では「国を失った無能な大名」と評される氏真。しかし実際の彼は、人の話を聞き、弱い者を処罰の材料にせず、家族や旧臣の生活を自らの責任として背負う人物だった。悠人は氏真に恩を感じ、やがて主従だけではない信頼を結んでいく。
氏真が人と会い、文化と家格を使って情報を得る。悠人がその情報を記録し、地図や時系列へ整理する。二人は未来を当てるのではなく、戦や政変の陰で、逃げ遅れる者を助け、焼かれる文書を守り、身元を失った人々の居場所を探していく。
だが、武田の駿河侵攻によって今川家は崩壊へ向かう。悠人が現代で暮らした土地も、戦国で得た村も、善得寺も、再び失われていく。
そして氏真は、かつて兄弟のように育ちながら敵となった徳川家康と向き合うことになる。
悠人は歴史を知っている。
家康が最後まで生き残り、徳川の世が訪れることも。
それでも、未来を知っているだけでは、今を生きる人の心までは決められない。
これは、現代知識で戦国を無双する物語ではない。
歴史上の勝者になることも、天下を動かすこともできない一人の若者が、失われていく人と記録を守りながら、国を失っても生き続ける今川氏真とともに、新しい「帰る場所」を見つける物語。