あらすじ
十年、彼女は朝いちばんに厨房へ降りた。
夜明け前に火を入れ、湯を沸かす。
伯爵夫人がする仕事ではない。
亡き義母の煮込み。
熱を出した義妹の粥。
どれも彼女の舌と記憶だけで作られていた。
作り方は、どこにも書かれていない。
書かなかったのは、彼女の意地だった。
エルシャには前世の記憶がある。
その記憶は、年ごとに一つずつ消えていく。
忘れられることの痛みを、彼女は知っている。
だから誰かの大切な味を、覚え続けた。
覚えていることだけが、自分がそこにいる理由だった。
ある夜、夫は客人に告げる。
妻の手すさびです、と。
火傷の残る手は、卓の下に隠された。
翌朝、彼女は湯を沸かさなかった。
罵らない。
泣かない。
責めもしない。
ただ、台所を降りただけ。
それだけで、あの家から義母の味が消えていく。
行き先を決めないまま、彼女は街道の宿にたどり着く。
そこの主人は、素性も行き先も尋ねなかった。
かわりに、彼はこう問う。
あなたは何が食べたいのですか。
十年、誰にも聞かれなかった問いだった。
彼女はその答えを、一つも持っていない。
自分の空腹の名前を、彼女は思い出せるだろうか。