あらすじ
歯の痛みに耐えかねた准看護師・高瀬は、駅前で見つけた奇妙な名前の歯科医院「アクオジデンタルクリニック」を訪れる。
そこにいたのは、海外で研鑽を積み、複数の医院を率いる若き歯科医・神津嘉紀。神津は、祖父が作り、父も使っていた古い拡大鏡を通して、歯だけでなく、患者の心に残された「影」まで見抜いていた。
高瀬が嫌っていたのは、歯を削る機械の音だった。治療中に響く「ウィーン」という音に導かれ、彼女は七年前の夜へ引き戻される。
かつて大学病院で働いていた高瀬は、夜勤中に眠り込み、受け持ち患者・佐伯の急変を見逃していた。それ以来、自分が佐伯を死なせたと思い込み、正看護師になる夢も諦めていた。
過去の中で若い自分を起こし、今度こそ早く急変に気づいた高瀬だったが、それでも佐伯を救うことはできなかった。死の原因は、予測も止血も困難な腫瘍からの出血だった。
さらに高瀬は、自分で消したと思い込んでいたPHSの音を、実は佐伯が「少し休ませてあげたい」と願い、消していたことを知る。
佐伯を救えなかったことと、見捨てたことは、同じではなかった。
治療を終えた神津は、歯の神経を残し、虫歯で傷んだ部分だけを処置した。高瀬もまた、過去を消すのではなく、自分を責め続けるために歪めていた記憶だけを手放していく。
クリニックを出た彼女は、最大にしていたアラームの音量を下げ、かつて諦めた看護師進学課程の資料請求ボタンに触れる。
一方、診療室に残った神津は、古い拡大鏡に刻まれた言葉を見つめていた。
――ミルベキヲミヨ。
患者の歯と、心に隠された痛みを診る、神津嘉紀の奇妙な診療録が始まる。