あらすじ
「お前がいなくても、椀は塗れる」——義父が白い縁を指で弾いた朝、わたくしは何も言い返さず、五年入れてきた下地から手を引きました。
漆は塗る手より、待つ手のほうが長うございます。乾かして、研いで、また塗って。家の帳面ではその日が丸ごと空白になりますけれど、椀の縁を浅く研げば、細い輪が三本、きちんと並んで出るのです。
離縁の日、椀は一つも持ち出しませんでした。持ち出せば盗んだと言われ、置いていけば輪が知っている。ならば輪にお任せいたします。
寒の納めの日、問屋の女主人が「研いでごらん」と言いました。艶の下から出たのは、太い輪が一本きり。——「誰が椀を支えていたんだい」。空いた乾かし場に、戸を直す手はもうございません。自分の名を高台へ入れたわたくしのもとへ「戻れ」と立った義父へ、同じ一句をお返しするお話。