あらすじ
「針は、誰でも持てます」——若い針子がそう申しましたので、わたくしは針箱ごと下がることにいたしました。
繕いは、破れてから直す仕事ではございません。破れる前に、表から見えない位置へ糸を足しておく仕事です。肩は踊る方ほど早く抜ける。袖口は手袋を替える癖のある方だけ擦れる。裾は馬車の乗り降りの多い季に裂ける。壁に貼れるのは運針の数と刻限だけで、その日の読みは全部この頭の中にございます。
十一年ぶんの働きは、入って半月の針子と同じ一行に並べられました。札は屑籠へ落とされ、洗い場の壁には針数が貼り出されました。左様でございますね。わたくしがいなくても、お屋敷は回ります。
では、針は置いてまいります。布も壊しも持ち出しもいたしません。やめるのは、先に足すことだけ。
冬の夜会。運針の数は正しく、刻限も正しく、糸の番手も記録どおりでした。それでも踊り出しの一拍で、衣装は右肩の縫い目から音もなく裂けました。誰も怒鳴りません。次の季から、招きが減るだけです。
自分の名で預かった一着を前に「今までどおりに戻りたいの」と仰った奥様へ、あの一句をそのままお返しするお話。