あらすじ
羽生恵、二十歳。
中規模商社で事務職として働く彼女には、これといった不満もなければ、これといった楽しみもなかった。
仕事は真面目にこなす。職場の人間関係も悪くない。同僚と食事に出かけることもある。それでも休日になれば、何を見るでもなくスマートフォンを眺めているうちに一日が終わる。
そんな、可もなく不可もない毎日。
雨上がりの街角で、あの赤に出会うまでは。
中古車店の軒先に停まっていたのは、小さく丸みを帯びた真っ赤な車だった。愛らしい姿をしているくせに、どこか獰猛で、不機嫌そうな顔をしている。
車の知識などほとんどない。
免許を取ってから一度も運転していない。
その車が何という名前なのかさえ知らない。
それなのに、どうしても目を離せなかった。
数日後、友人に連れられて再びその車の前に立った恵は、初めてエンジンが目覚める瞬間を耳にする。
小さな車体から放たれた、腹の底まで震わせる野太い排気音。
その瞬間、恵は人生で初めてと言っていいほど強く何かを欲しいと思った。
「……買います」
ところが、その赤い車――アバルト500は、初心者に優しい相棒などではなかった。
三つのペダル。
左側にある運転席。
自分でギアを選ばなければ走ることすらできない、左ハンドルの5速マニュアル。
免許を取って以来一度も車を運転したことのない恵にとって、それはあまりにも無謀な選択だった。
重いクラッチに足を震わせ、エンストするたび後続車に怯え、駐車ひとつに汗だくになる。
それでも、不思議と手放したいとは思わなかった。
昨日より少しだけ滑らかに発進できた。
初めて一人で目的地まで走れた。
知らなかった道の向こうに、自分の力で辿り着けた。
小さな成功を重ねるたび、何となく毎日を過ごしていた恵自身も少しずつ変わっていく。
やがて車を通して増えていく出会い。
同じように走ることを愛する仲間たち。
運転を教えてくれる人。
価値観の違うドライバー。
そして、「女にマニュアル車なんて扱えるわけがない」と笑う者たち。
普段は温厚な恵も、自分が選んだ赤い相棒を馬鹿にされることだけは黙っていられない。
街から高速道路へ。
一人のドライブから仲間とのツーリングへ。
そして峠、ドライビングレッスン、サーキットへ。
速くなるためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
自分の右手でギアを選び、自分の足でクラッチを繋ぎ、自分自身が行きたい場所へ走っていくために。
これは、何かを選ぶことさえ知らなかったひとりの女性が、真っ赤な小さなサソリと出会い、自分だけの人生を走り始める物語。
雨上がりの赤から始まった彼女のカデンツァは、まだ最初の一音を鳴らしたばかりだ。