あらすじ
御厩透嗣(みまやとうじ)が目を覚ましたのは、九州北部の山中に建つ私立精神療養施設――胎生心理研究院だった。
自分の名前は分かる。
だが、年齢も、職業も、家族の顔も思い出せない。
記憶の中に残っているのは、たった一人の女だけだった。
廻谷まひる(めぐりやまひる)。
夏の海辺で笑ったこと。
古い映画館で手を握ったこと。
二人きりで結婚を約束したこと。
そして婚礼の夜、真昼の細い首を、自分の両手で絞めたこと。
透嗣を担当する精神科医・薬師鼎(やくしかなえ)は、まひるという女性は存在しないと告げる。警察にも戸籍にも、彼女の記録はない。透嗣が抱いている恋愛と殺人の記憶は、長期昏睡と精神的外傷によって作り出された妄想だという。
しかし研究院の夜には、まひるの声がする。
閉ざされた窓の外から、壁の内側から、使われていない院内電話から。
「早く思い出して。
あなたが私を殺す前に」
病棟で出会った少女・終夜水琴(しゅうやみこと)は、自らを「まひるになり損ねた九番目」と名乗る。
水琴は透嗣を、ある日は兄と呼び、ある日は夫と呼び、別の日には父親と呼ぶ。そして透嗣の顔を見つめるたび、懐かしそうに言う。
「また若くなったのね」
研究院の旧病棟には、明治末期から現代までに撮影された患者写真が残されていた。
時代も名前も異なる男たち。
だが、全員が透嗣と同じ顔をしている。
その男たちの隣には、必ず一人の女が写っていた。
廻谷まひると同じ顔をした女。
彼らがたどり着いたのは、透嗣の祖父とされる精神医学者・御厩胎一郎(みまやたいいちろう)が提唱した、異様な学説だった。
胎恋遺伝説。
恋愛感情は、個人の経験から生まれるものではない。強烈な愛情や執着、嫉妬、殺意は生殖細胞に刻まれ、胎児へ受け継がれる。
特定の物語、匂い、音、顔を、母体を通じて胎児へ与え続ければ、生まれた子供に「特定の人間を愛する心」を作ることができる。
透嗣とまひるは運命の恋人なのではない。
何世代にもわたる実験によって、互いを愛するよう作られた男女なのかもしれない。
やがて透嗣は、研究院地下に保存された婚礼事件の記録を発見する。
過去百年の間に、何人もの花嫁が婚礼の前後に殺害されていた。
一人目からは髪。
二人目からは歯。
三人目からは舌。
その後も、眼球、皮膚、声帯、子宮が失われている。
それらは猟奇殺人の戦利品ではなかった。
歴代の花嫁たちから身体と記憶を集め、一人の完全な「廻谷まひる」を作るための部品だった。
二人の愛は、どこまでが実験なのか。
植え付けられた愛は、偽物なのか。
誰かに作られた感情であっても、失う苦しみまで偽物と呼べるのか───。