あらすじ
「痛かったら、左手を上げてくださいね」——歯科衛生士の杉浦沙織が勤める医院では、院長がこの一言を、一人の例外もなく口にする。器具の位置から患者の口癖まで書き留める記録魔の沙織は、ある日、妙なことに気づく。治療のあいだに左手を上げた患者だけが、そのあと「どこも痛くない」と言い出しているのだ。長年の腰痛が。膝が。肩が。まるで、消えてしまったように。
半年分の記録を突き合わせると、法則ははっきりしていた。左手を上げた人だけ、痛みが消える。上げなかった人には、何も起きない。そして——他の医院で同じことをしても、何も起きない。この現象は、この医院だけで働いている。
痛みが消えるとは、警報の鳴らない身体になるということだった。傷に気づかず、重症化してから運ばれる患者が出はじめる。噂は口コミサイトから漏れ出し、医院の前には、痛みを消してほしい人々の行列ができていく。
そんなある朝、予約簿に、見覚えのある名前が入っていた。転んでも泣かない、沙織の八歳の息子。消しても、消しても、翌朝には同じ枠に戻ってくる、その予約。
息子を診療台に上げまいとする母親の必死さが、六十年前、この土地で「左手を上げられなかった一人の子ども」へと遡っていく——日常の定型句を一生ものに変える、痛みと記録のホラー。全45話・完結済。