あらすじ
夫が囁いた愛の言葉に、わたくしは覚えがあった。
三年前の秋に、わたくしが書いた一枚の、二行目である。
外交の下書きだと言われて書いた。
外交の文書に、愛の言葉は要らない。
嫁いで十年になる。
夫の書簡も、社交の挨拶も、贈り物の札も、下書きはわたくしが書いてきた。
署名するのは、あの方である。
「僕が考えたことを、君が整えただけだよ」
そう仰る声は、よく通る。
書いた者の名は、どこにも残らない。
それが決まりだと教わって、そのとおりにしてきた。
不満に思ったことは、たぶん一度もない。
ある夜会で、若い令嬢が仰った。
あの方のお手紙は、詩のようですの。
その先を、わたくしは暗唱できる。
宛名の欄だけが、いつも空いていた。
誰に宛てた文なのかを、わたくしは知らない。
今夜も机には紙が置いてある。
壺の栓を抜けば、いつもどおりの夜になる。
わたくしは、今夜も書くのだろうか。