あらすじ
篠宮怜の“ぬい”が、ある日しゃべり出した。
事務職として単調な日々を送る女性は、三年前に当てた“推し”の自作ぬいぐるみを神棚のように祀り、毎日声をかける生活を続けていた。ある朝、ニュースで怜の搬送を知るが、その夜、ぬいから突然声が返ってくる。そこにいたのは、動くこともできず、ただ視界の範囲だけで世界を認識する“篠宮怜”本人だった。
混乱しつつも彼女は冷静に状況を受け入れ、ぬいを「預かる」ことを決める。外に持ち出さず、環境を整え、食べられない供物を供え、日常の中に彼を組み込んでいく。一方の怜は、彼女の生活を目の当たりにする。通勤、残業、無感動な仕事、ただ“空白を埋めるため”に流される自分たちの音楽。歌詞の意味すら考えず、それでも必要だから聴くという彼女の言葉に、怜は初めて、自分たちの作品が届いている場所を知る。
二人は互いに踏み込まない距離を保ちながら、短い時間を共有する。やがてぬいは温もりを帯び、怜は元の身体へ戻る兆しを見せる。別れの直前、彼はこの時間を「よかった」と呟き、やがてぬいはただの無機物へ戻る。
数日後、復帰会見で怜は「変な夢を見た」と語る。しかしその夢の内容は、確かに彼女の部屋で過ごした時間そのものだった。
彼女は何も変わらない日常に戻りながらも、今日も神棚の白い布を替え続ける。そこにいるのはもう喋らないぬいぐるみだが、それでも確かに、彼女の生活の“空白”を支え続けている。