あらすじ

語り手である私は、長いあいだ一冊の愛読書を持っていた。題名は『空白の午後のために』。淡い灰色の表紙、著者名だけが空白の不思議な本で、子供のころから人生の節目ごとに思い出してきた。しかし、その本について人に話すと、誰も存在を知らない。図書館にも古書店にも記録はなく、残っているのは小学三年の読書ノートに書かれた題名と、著者名欄の空白だけだった。  大学時代からの友人・水野に相談した私は、古い児童雑誌『こどもの硝子』に「空白の午後」という短編が掲載されていた痕跡を見つける。だが、その複写はいつのまにか増え、写真に撮ると文字が消え、声に出して読むと内容が変わる。やがて、その本は読んだ者の記憶の空白を取り込み、本文を増やしていくものだと分かってくる。水野の前には、幼くして亡くなった妹・美津子の記憶が現れる。彼は、妹に本を読んでやる約束をしながら、それを果たさなかったことを思い出す。  一方、私は「み……こ」という名の影から、小学校時代の同級生・小田切美紀子を思い出す。美紀子は絵の中に白い空白を残す子で、ある日、題名だけが印刷された「空白の午後」のページを私に預けた。私はそれを返さず、題名に勝手に「のために」と書き足した。その紙を、自分の記憶の中で一冊の本に仕立て、長いあいだ愛読書だと思い込んでいたのだった。美紀子は後に転校し、私は彼女の「返して」という声も、「もういい」という諦めも忘れていた。  水野の妹の紙片、美紀子の失われたページ、私の読書ノートは互いに呼応し、本はさらに他人の空白を取り込もうとする。私は図書館員を証人として巻き込みかけるが、寸前で思いとどまる。読ませることは、また誰かの傷を本文にしてしまうことだと気づいたからである。やがて私は美紀子に手紙を書き、自分がページを返さなかったことを詫びる。美紀子は、それを覚えていると返事をくれるが、最後まで読めばまた誰かのものを自分のためにしてしまう、と告げる。  私は紙片を美紀子に直接返そうとするが、彼女は受け取らず、「あの紙があった場所へ、空白のまま返してください」と言う。私は余計な説明も謝罪も書き足さず、紙片を大学図書館に資料として預ける。水野も妹の墓前で、読めなかった本を読むのではなく、読んでやらなかったことを忘れてきた自分を認める。  読書ノートには最後に、「最後の読者は、最後まで読んだ者ではありません。最後まで読まないことを選んだ者です」という言葉が現れる。私はそれを書き写さず、写真にも撮らず、消えていくままにする。『空白の午後のために』は、私の愛読書ではなかった。それは、私が読めなかった誰かの午後であり、私が自分の物語にしてしまった空白だった。私はその空白をもう自分の名前で埋めず、開かない読書ノートとして本棚に置く。読まないまま、私のものにしないまま、そこにあることを認めることで、ようやく私は一冊の本を読み終える。

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カクヨム2026/07/14
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