あらすじ

今日は大晦日だった。  東京では珍しく雪が降っていた。細かな白い粒が、港区の高層マンションの外に並ぶ街灯の下で、夜の底に薄い灰をかぶせたように舞っている。  遠くの寺から除夜の鐘が聞こえ始めたころ、陽翔はまだ窓辺に張りついていた。神社の参道の先に見える灯りを指さし、初詣の屋台を見に行きたいと何度もせがんでいた。  部屋の中は暖房がよく効いていて、年越しそばのつゆの匂いがまだ残っている。テレビでは年越し番組が流れ、芸人たちの笑い声が明るすぎるほど響いていた。  私は陽翔に赤いダウンジャケットを着せ、手編みの赤いニット帽をかぶせた。特撮ヒーロー柄のその帽子は、縁が少しだけ歪んでいる。それでも陽翔は、世界でいちばんかっこいい帽子だと言ってくれていた。 「ママ、甘酒飲みたい」 「子どもでも飲めるやつだけね。勝手に走っちゃだめ。パパの手、ちゃんとつないで」  蓮司は玄関で黒いダウンを羽織り、陽翔のマフラーを整えていた。顔を上げて私を見ると、目尻に少しだけ笑みを残した。 「大丈夫。温かいのを一杯買って、すぐ戻る」 「ママも待っててね!」  陽翔は小さな手を伸ばして、私とハイタッチをした。  私は笑って、父子がエレベーターへ向かうのを見送った。扉が閉まる直前、陽翔は隙間から手を振っていた。  鐘の音が、ひとつ、またひとつと夜に沈んでいく。  私は窓辺に寄り、下を見下ろした。神社へ向かう人の流れはそれほど多くない。雪のせいで、街全体が奇妙なほど静まり返っていた。  十分ほど経ったころだった。  コンビニ脇の路地から蓮司が出てくるのが見えた。  ひとりだった。  陽翔の手を引いていない。  蓮司は雪の中に立ち、うつむいて煙草に火をつけた。  心臓が、凍ったように縮んだ。  私はスリッパも履き替えず、コートだけつかんで部屋を飛び出した。エレベーターは氷づけにされたみたいに遅い。階数表示がひとつ下がるたび、手のひらから熱が抜けていった。

連載情報

ウェブ小説

配信言語
カクヨム
カクヨム2026/07/12
  • 現在の作品大晦日の夜、我が子が奇妙に消滅!狂いそうな私に夫が突きつけたのは『俺たちは10年もディンクスだろ』という絶望の嘘!