あらすじ

現在の大和川は、昔から今の場所を流れていた川ではない。宝永元年、人の手で大阪平野に通された、長さ十四キロあまり、幅百八十メートルの人工の川である。 物語は、その川に水が入る朝から始まる。宝永元年十月十三日。古い堤に鍬が入り、細い水が糸のように走り、やがて濁流になる。堤の上に立つ大坂代官・万年長十郎は思い出していた。この川が、まだ誰にも通らない願いだった頃のことを。 江戸前期、河内平野の大和川は北へ分かれて流れ、大雨のたびに田を沈め、米を腐らせ、子を奪った。今米村の中甚兵衛らは「川を西へ替えてくれ」と半世紀近く訴え続ける。だがその願いは、別の村を川底に沈める願いでもあった。新しい川筋には家があり、畑があり、墓がある。「お前たちの救いは、わしらの死だ」。検分は繰り返され、幕府の答えは変わらない。付替え不要。正しい願いは、正しいだけでは通らなかった。 その死んだ願書を読み直したのが、万年長十郎だった。涙だけでは幕府は動かない。水害の被害、反対村の損、工費、旧川筋を新田に変えたときの地代。願いを消すのではなく、損得から目をそらさない帳面へ並べ替える。江戸の勘定所がその紙に見たのは、哀れな百姓ではなく、幕府の負担を減らす事業だった。半世紀動かなかった歴史が、動き始める。 だが決定は、救いだけを意味しない。水に苦しむ村に生まれた清太は、想いを寄せるおりくの村を、自分の鍬で掘る側に立つ。おりくは母の骨を抱えて、まだ水のない川底を渡る。願った者と奪われる者が同じ泥の上に立ったまま、二百二十五日の大工事は進む。藩主の急死、止まりかける普請、抜かれた杭、続く雨。それでも水は、西へ向かう。 通水は、終わりではない。旧川筋は新田になり、綿が白く咲き、堺の港は少しずつ浅くなる。救いと負担は、場所を変えて続いていく。勝った顔のできない者たちを残して、川は今日も流れている。 誰か一人の英雄譚ではない。願った者、反対した者、帳面に変えた者、掘った者。一本の川に人生を変えられた人々の群像劇である。 転生もチートもありません。史実の骨格に、創作人物の暮らしと感情を編み込んだ歴史小説です。全72話、完結までの原稿がすべて揃っています。毎週火・金の予約更新、十二月からは毎日更新に切り替えて完結まで走ります。休載はありません。 ※鴻池新田の取得経路、宝永五年検地の扱い、創作人物の会話や心理は、史実資料をもとに小説として再構成しています。

連載情報

ウェブ小説

配信言語
カクヨム
カクヨム2026/07/12
  • 現在の作品川を西へ ―半世紀却下された願いが、地図にない大和川を通すまで―