あらすじ
海図には、まだ多くの余白がある。
羅針盤の針がどこを指しても、その先に何があるのかを知る者はいない。潮の流れも、風の道も、書物に記された航路図も、ここから先はただの想像で埋められている。
それでも人は船を出す。
なぜかと問われれば、答えはいつも同じだ。誰かがそこに何かを見つけたと言うから。あるいは、誰も見つけていないからこそ、行かねばならないと思うから。
これは、そんな余白だらけの海図の時代に生きた、ひとりの水夫の話である。
彼の名は、天草蓮。
剣は握れず、櫂も満足に漕げず、嵐が来れば真っ先に足がすくむ。艦隊の中で彼より弱い水夫を探す方が難しいと言われるほどの、正真正銘の最弱だった。
けれど彼には、ひとつだけ、誰にも真似のできない技があった。
道具を、極限まで理解し、極限まで磨き上げる技。
錆びた小刀も、朽ちた小舟も、彼の手にかかれば化ける。それがどれほどの化け方をするのか、当の本人すら、物語の終わりまで正しく理解してはいなかったように思う。
これから語るのは、栄光の記録ではない。
甲板の隅で震えていた男が、いつの間にか「海の統べ手」と呼ばれるようになるまでの、長く、少し不格好な航海の記録だ。
彼自身は、最後までこう言い続けるだろう。
「俺は何もしてません。強かったのは、こいつです」と。
その言葉が、どこまで本当で、どこから謙遜なのか。
それは、この海図の余白を、あなた自身の目で埋めながら確かめてほしい。
錨を上げる時が来た。
風は、まだ凪いでいる。