あらすじ
それは中学一年生の夏。エコ週間という制度でエアコンは使われず、開け放たれた窓から蒸した風が夏草の匂いを運んできた。直前の理科で陽炎を知ったこともあり、それは風というより大気のゆらぎに近く感じた。そういったことで、国語の時間に書かされる作文に集中できるはずもなく、教室一帯に満ちた気怠い空気は換気されることなく滞留していた。──ただ一点を除いては。
隣の席に座っていた加志さんは香川からの転校生で、その夏にただ一人涼しい顔を保つ女子生徒だった。僕は、その涼しい顔が冬になるとどうなるのかずっと気になっている。
それから長い時間をかけて、授業は残り十分になった。あの夏から大学二年の今になるまでと比べても長い時間だった。実際何かが歪んでいると思うほどの時間感覚だ。三鷹先生の指示で、僕は加志さんと作文を交換した。僕の作文はまだ終わっていなかった。そのことだけ強く覚えていて、では何を書きかけていたのかというと思い出せなくなる。僕は今でも、その文章はまだ書きかけなのだと誰かに訴えたくなる。
綺麗な字だった。視界がゆらぎ、すべてが滲む夏のなかで、凛と形を保っていた。「私は先月、隣町の商店街の裏で志村先生を見つけました」それだけの一文が、物語の始まりを冷たく示していた。この作文が、誰にとっても善いものとはならないことを、その一文だけで悟ってしまう。「私と先生の名字には同じ漢字が使われているので、私は志村先生のことが好きでした」言葉はそう続いた。
僕は加志さんの目で志村先生を追っていた。志村先生が放課後に怪しい店に入るところを見た。親にも学校にも、あまり近づくなと言われるエリアだった。僕はお店の前の通りで必死に待っていた。加志さんの体で、自販機とゴミ箱の側に隠れていた。加志さんはその歳にして匂いの描写を忘れなかったので、僕は生ゴミの匂いにつつまれ、次第に明るくなる商店街の裏通りで何かを待っていた。やがて、女性二人とお店から出てくる志村先生を見た。
加志さんは自分が見たことについて、事実しか描写しなかった。僕は彼女の目で彼女と同じものを見たけれど、彼女の心はそこになかった。読み終えた僕が隣を向くと、机に肘を置いて傾いた薄い笑顔につかまった。細い目と細い口が僕の体をとらえていて、金縛りにあったように時間が流れない。僕が氷点下を実感したのは、それが二度目だ。一度目は小学校のスキー教室。それからはまだ、三度目を残している。
夏休みがあけると、加志さんはいなくなっていた。それから彼女を見ることはなく、夏は何度も時間を歪めて、今は大学二年の夏だ。何も、その間ずっと彼女のことを考えていたわけではないけれど、僕はずっと、正しい時間を歩みたいと願っていた。時間と空間のゆらがない、冷たい夏を歩きたかった。