あらすじ
退職刑事の宮坂誠一は、かつての相棒・瀬尾彰の葬儀で、瀬尾の娘から一冊の黒いノートを託される。それは三十年前、十四歳の少年・日向卓也が雨の夜に失踪した未解決事件の非公式記録だった。瀬尾は死の直前、「宮坂に返してくれ」と言い残していた。
三十年前、宮坂と瀬尾は日向卓也失踪事案を担当した。母子家庭、母の交際相手、学校での孤立、古い水門への執着、机に入れられた赤い丸の地図。宮坂は家出や事故の可能性を強く見たが、瀬尾は卓也が「何かに呼ばれていた」ことを見落とさなかった。やがて水門近くで卓也の片方の靴が見つかるが、遺体は発見されず、事件は未解決のまま終わる。
現在の宮坂は、瀬尾が残したノートを読み進めるうち、自分が当時どれほど早く結論を急ぎ、母親や同級生の言葉を聞き落としていたかを知る。さらに関係者を訪ね直す中で、瀬尾が三十年にわたり日向卓也の母、同級生、教師らを訪ね続けていたことを知る。瀬尾は宮坂を責めながらも見捨てられず、宮坂が自分を善人だと思って生きていける程度の嘘を守り続けていた。
やがて宮坂は、建て替わった警察署の一階で、瀬尾が隠していた「生活安全課 少年相談控」を開く。そこには、失踪当日の夕方、卓也が署の相談室を訪れ、「水門で呼ばれる」と訴えていた記録があった。宮坂は別件の合間に応対し、卓也の名を最後まで確認せず、「呼ばれたら返事をして、それで終わりにしろ」と帰していた。翌日、同じ少年の失踪届を受けながら、宮坂はその相談控と照合しなかった。
宮坂はようやく、自分が悪意ではなく正しさによって少年の声を閉じたことを認める。水門で日向卓也の名を呼び、瀬尾の墓前で相談控を読んだことを報告する。最後に宮坂は黒いノートへ、失われた少年を「家出人」ではなく「日向卓也」として書き残す。事件は解決しない。だが、忘れた男は、忘れなかった相棒が守り続けた名前を、ようやく自分の手で置き直す。