あらすじ
築二十年を少し越えた、ごく普通の二階建てアパート。
三十五歳の相沢慎一は、隣の二〇三号室に越してきた若い夫婦、橘亮平と美咲と、挨拶を交わす程度の距離で暮らしていた。
妊娠中の妻を気遣う、感じのいい夫。
控えめで、いつも小さく笑う妻。
けれどある夜、慎一は駅前のコンビニ裏で、亮平が見知らぬ女と口づけているところを目撃してしまう。
言うべきか。
見なかったことにするべきか。
迷った末、慎一は何も言わなかった。
それから隣室の様子は少しずつ変わっていく。
美咲は痩せ、亮平の姿は見えなくなり、夜のアパートには聞こえるはずのない赤ん坊の泣き声が響き始める。
そして慎一のスマホには、非通知の留守番電話が残るようになった。
録音時間は、三十七秒。
そこに入っているのは、甘く、湿った女の声。
「好き」
「愛してる」
ただ見ていただけ。
ただ黙っていただけ。
そう自分に言い聞かせる慎一の生活は、声と泣き声によって少しずつ壊れていく。
これは、見てしまった男と、聞こえてしまった女と、届かない声の物語。