あらすじ
一九九八年六月十八日、榛野市保健センターに一本の電話が入った。
「さっきの放送が早くて、りんご素麺の作り方を聞き取れませんでした」
だが、FM榛野は開局二か月前だった。
市の有線放送にも、そんな献立は存在しない。
それでもその日、りんご素麺は十一杯売れた。
団地では西向きの窓が閉まり、バスは停留所を通過し、赤い子ども用長靴が交番へ届けられた。
どの出来事にも、ありふれた理由がある。
勘違い、古い停留所標識、清掃車から落ちた展示品、家族同士の思い込み。
問題は、理由が見つかるたびに、存在しなかったはずの「放送内容」だけが詳しくなっていくことだった。
存在しない通知を訂正票に書き写す交換員。
無関係な資料を四つに分ける学芸員。
因果関係を説明するため、観測されていない前項を置く研究者。
彼らは誰も嘘をついていない。
誰も怪異を作ろうとしていない。
ただ、目の前の誤りを正しく処理している。
そのたびに、放送されなかった番組は、より完全な記録として残されていく。
これは、存在しない放送を探す物語ではない。
誰も発していない問いに、町全体が正しく答え続けた物語である。