あらすじ
この話は昔のことだ。まだ大陸の地図が定まらず、国々の境がただの川や山の名で呼ばれていた頃、世界の底には眠ってはならないものが眠っていた。人々はそれを「深淵」と呼んだ。その時代に、ひとりの娘がいた。名はアルティナ。彼女は深淵と戦わなかった。代わりに彼女がしたのは、自分の魂を編んで網を作り、その網で深淵を地の底へ縫い留めることだった。深淵は地の底へ沈み、空は静かになり、海はもとの水平を取り戻した。そして人々は、アルティナという娘がもうこの世のどこにもいないことに気づいた。残された者たちは彼女の名を国の名に変えた。アルテイナ。それが、今この物語が語られている小さな王国の名前である。だが、物語というのはいつも、一番大切なところを語らない。アルティナが結界に縫い込んだのは、彼女の魔力だけではなかった。彼女の血もまた、結界の根に絡みついた。それゆえに、彼女の血を引く者たちは、たとえ望まなくとも結界と無関係ではいられなくなった。結界は時とともに緩み、綻び、百年を超える頃には誰かがもう一度、糸を結び直さねばならなくなる。そしてその「誰か」は、決まってアルティナの血を継ぐ者の中から選ばれた。選ばれた者の多くは、結界に小さな修繕を施すだけで済んだ。それだけで命を落とすことはない。だが、数世代に一度。まれに、本当にまれにアルティナとまったく同じ波長を持つ者が生まれてくることがあった。「完全適性者」と呼ばれるその者だけが、結界そのものを編み直す「大修復」を行うことができた。そしてその儀式だけが、最初の聖女がそうしたように、術者の命のすべてを必要とした。代々アルティナの直系の末裔たちは、この事実を誰よりも重く受け止めながらそれでも国の盾であることをやめなかった。なぜなら、彼らがやめれば、地の底で眠る深淵が再び目を覚ますことを、誰よりもよく知っていたからだ。そうして三百年が過ぎた。結界は緩み、修繕され、また緩んだ。アルティナの血は薄れることなく、シャルティス家の中に静かに流れ続けた。そして、ある年の冬、ひとりの女の子が生まれた。その子の名は、イザベラ。これは、彼女がどう生き、どう笑い、誰を愛し、そして最後に何を選んだのか、語り尽くされることのなかった、もう一つの真実の物語だ。