あらすじ

一九一〇年の秋、わたしは指輪の代わりにヴァイオリンを贈った。二年ぶんの貯金を叩いて買い、銀の板に文字を彫らせた。  ――婚約の記念に。エルシーより、トマスへ。  彼は港から港へ渡り歩く楽団の楽長で、わたしは機屋町の郵便局の電信係。逢えるのは年に幾日もなく、わたしたちはいつも手紙で暮らしてきた。「この航海を最後にする。帰ったら式を挙げよう」。そう書き残して、彼は史上最大の船に乗った。  四月十五日、月曜。わたしの局に届いた公示を、わたし自身の手で町の掲示板へ貼った。  ――タイタニック号、氷山と接触。乗客乗員は全員無事。  町は歓声を上げた。教会の鐘が鳴った。わたしは笑って、式の日取りを決めて、通りじゅうに触れて回った。  その報せが誤りだったと、翌朝の紙が告げた。  やがて世間は彼を英雄にする。「タイタニックの楽団は、沈む船の上で讃美歌を弾き続けた」。新聞がそう書き、募金が集まり、銅像の話まで出た。町の誰もがその物語を愛した。  けれどわたしは知っている。船に酔う彼を。給金の額を気にする彼を。讃美歌なら葬式で飽きるほど弾いたと笑った彼を。  同じ紙面の隅に、生き延びた無線士の談話が小さく載っていた。バンドは〈Autumn〉を演奏していた、と。新聞はその一語に註をつけた。讃美歌集にある曲調の名である、と。  ――違う。あれは、あの人がわたしの前でだけそう呼んだ曲だ。  けれど二人だけの呼び名は、誰にとっても証拠にならない。  あの人が最後に弾いた曲を、わたしだけが知らない。  それを確かめることだけが、わたしに残された「あの人と過ごす時間」になった。  悪人はひとりも出てきません。断罪も、ざまぁもありません。  あるのは食い違う証言と、善意でできた世間の物語と、婚約者には何ひとつ権利がないという、一九一二年の当たり前だけ。  沈没の夜は、一度も描かれません。これは、それを見なかった人の物語です。  ※実在の出来事に着想を得た創作です。船と事故をめぐる事実は史料に沿って書いていますが、主要な登場人物とその私生活はすべて架空のものです。

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カクヨム
カクヨム2026/07/26
  • 現在の作品沈没したタイタニックで、あなたが最後に弾いた曲を、わたしだけが知らない ~豪華客船楽長に贈った、婚約指輪のかわりのヴァイオリン~