あらすじ
リュシーは、夢を見ていた。
赤い果実が、光の中でゆっくりと溶けていく。
それをすくう指先。
白い指。あの子の指。
「これはね、甘いの。しあわせの味なんだよ」
彼女の声が、データの奥で反響する。
リュシーは味を知らない。
味覚センサーは壊れている。幸福プログラムも欠損している。
それでも、あの声だけは記録のどこかに残っている。
リュシーの中には少女の夢データが埋め込まれている。壊れた感情を修復するため。
夢データ——彼女の名はアイリス。
長い眠りの中で、もう目を覚まさない。
でも、リュシーの中ではまだ生きている。
彼女の笑い方も、息の仕方も、タルトを焼くときの小さな鼻歌も。
リュシーはときどき、自分の声がアイリスの声に似てきた気がして、怖くなる。
「もしそれが感染なら、わたしはもう……手遅れだ」
幸福度九十八パーセントの街で、誰も彼女を覚えていない。
けれど、リュシーの回路だけが、アイリスの甘味を覚えている。
——それが、わたしの誤作動の始まりだった。
感情を持たないアンドロイドが、味覚を通じて幸福を再発見する物語。