あらすじ
第1章:灰色の静寂
雪は、世界からあらゆる「音」だけでなく、「色彩」をも奪い去っていく。
北陸の山間、かつて炭鉱の街として栄え、今はただ静かに朽ちていくのを待つばかりの限界集落――通称『黒い向日葵(ひまわり)の郷』。視界を埋め尽くす容赦のない豪雪は、すべての境界線を曖昧にぼかしていた。 錆びついたトタン屋根も、放置された軽トラックも、そして人間の心すらも、冷徹な白の中に等しく埋没させていく。
「……また、始まったな」
真柴 柊平(ましば しゅうへい)は、古びた木造アパートの窓から外を眺め、小さくため息をついた。 吐き出した息が白く曇り、窓ガラスに触れてすぐ消える。柊平の胸の奥にある冷たい塊は、どれだけ息を吐き出しても消えてはくれそうになかった。
柊平は三十五歳。かつては東京の児童相談所で児童心理司として働き、傷ついた子供たちの心に寄り添う日々を送っていた。だが、今の彼はただの「壊れた男」に過ぎない。この雪深い村に逃れてきてから、まもなく二年が経とうとしていた。
彼がこの地を選んだ理由はシンプルだ。人が少なく、感情のやり取りが極めて希薄だから。 何より、彼自身の「呪い」から身を隠すには、この静寂すぎる世界が必要だった。
柊平には、生まれつき奇妙な感覚があった。 他人が嘘をついたとき、あるいは強い感情を抱いたとき、その「感情」が色や形を持ったモヤとなって、相手の周囲に視覚的に見えてしまうのだ。学術的には『共感覚(シナスタジア)』の一種と呼ばれる。
――激しい怒りは、他者を切り裂くような鋭利な「赤黒い棘」。 ――深い哀しみは、足元から這い上がってくる「ねっとりとした泥のような深い青」。 ――そして「嘘」は、相手の口元から吐き出される「粘り気のある、歪んだ黄緑色の煙」。
児童心理司だった頃、彼はこの感覚をフルに活用して子供たちの小さなサインを読み取り、多くの命を救ってきた。しかし、ある「最悪の事件」を境に、彼の心は限界を迎えた。 嘘と悪意、そして絶望。それらが放つ極彩色の毒に、柊平の網膜と精神はズタズタに引き裂かれてしまったのだ。
「先生、まだ起きていらっしゃったのね」