あらすじ

世界は、誰かの手によって筋書きが書かれている。 山がそびえ、川が流れ、そのほとりに村が生まれる。 王は玉座に座り、魔王は城の最奥で勇者を待つ。宿屋の主人は旅人に部屋を貸し、道具屋の主人は薬草を売り、村長は村を治める。 誰もが、与えられた役割に従って生きていた。 やがて、勇者が自らに与えられた役割に従って魔王を倒した。 長く続いた戦いは終わり、人々は魔王の脅威から解放された。世界に平和が訪れ、それまで決められたとおりに生きていた者たちも、少しずつ自分の意思で暮らし始める。 宿屋の主人は営業時間を短くし、空いた時間で新しい料理を作り始めた。 道具屋の主人は薬草の隣に、自分の好きな菓子を並べた。 村長は公務の合間に冗談を考え、農民たちは畑仕事の途中で昼寝を楽しむようになった。 役割そのものは変わらない。 それでも、働き方や生き方を選べるようになった。 世界は、たしかに自由になった。 ただ一人を除いて。 小さな田舎の村、ポックル村。 その入口には、一人の女が立っている。 朝も昼も。 雨の日も、風の強い夜も。 旅人が近づけば、笑顔を浮かべる。 「ようこそ。ここはエルラルド村です」 許されている言葉は、それだけだった。 宿屋の場所を詳しく教えることも、今日の天気について話すこともできない。 疲れたと訴えることも、靴が痛いと伝えることも、腹が減ったと言うこともできない。 その場から離れることも。 眠ることも。 自分の名前を名乗ることすらも許されていなかった。 なぜなら、それらは彼女の役割として書かれていないからだ。 彼女に与えられた役割は、村を訪れた旅人に村の名前を告げること。 ただ、それだけ。 いつからそこに立っているのか、誰も知らない。 どこで生まれ、どのような家族と暮らしていたのかも分からない。 村人たちは、昔から彼女がそこにいたような気がしていた。 けれど、彼女の名前を知る者はいなかった。 いつしか人々は、名前の代わりに彼女をこう呼ぶようになった。 「村人A」 村人Aに許されている動きは、その場で足踏みをすることだけ。 一歩を前へ踏み出すことも、後ろへ下がることもできない。 世界が平和になっても、彼女の一日は変わらなかった。 「ようこそ。ここはポックル村です」 旅人はその言葉を聞き、安心したように村の中へ入っていく。 彼女の名前を尋ねる者はいない。 立ち止まって、そのすり減った靴を見る者もいない。 こうして村人Aは今日も、自分の名を持たないまま、同じ言葉を繰り返している。 「ようこそ。ここはポックル村です」

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カクヨム2026/07/22
  • 現在の作品村人Aを解放せよ