あらすじ
「――それでね、あら、もうこんな時間。ごめんね、そろそろ出かける準備をしないと。今日はね、お友達とクラシックのコンサートなの」
『いいね。楽しんできてね』
「うふふ、ありがとね」
『元気になったみたいでよかったよ』
「うふ、あなたのおかげよ。それじゃ、またね」
『ああ。またね』
とある母親。通話を終えた彼女は、そっとスマートフォンをテーブルの上に置いた。ふっと息を吐き、窓のほうへ目を向ける。白いレースのカーテン越しに差し込む柔らかな陽光に頬を緩めると、ゆっくりと身支度を始めた。
ほんのひと月ほど前の彼女からはとても想像できない姿だった。その頃の彼女は周囲の人間が声をかけることすらためらうほどひどく落ち込んでいた。
無理もない。息子が趣味の登山中に行方不明になったのだ。
その知らせを受けた瞬間、彼女は飛ぶように現地に駆けつけた。捜索隊に加わり、木々が鬱蒼と茂る薄暗い山中を歩き回り、息子の名前を呼び続けた。
だが返ってくるのは風に揺れる枝葉のざわめきと、どこかで枝が折れて落ちる乾いた音ばかりだった。