あらすじ

かつて一人の男の絶望が、世界の理そのものを歪めた。 「置いていかれた男」――生涯の果てに愛するものすべてを奪われ、虚無へと堕ちたその者の慟哭は、静かに、しかし確実にこの国の地脈を侵食していった。表向きは変わらぬ江戸の世でありながら、その裏側には、人ならざるものたちが跋扈する「もう一つの日本」が息づいている。 その歪みが最も色濃く滲み出す場所――九苦山。富士の裾野に見立てられたこの山は、人の苦しみが黒き瘴気となって溜まり続ける、世界の心臓とも言うべき場所だった。 その泥濘の山道を、一人の少年がふらふらと彷徨っている。 前田右近、十四歳。 彼は、剣の師であり、誰よりも愛した女――咲良を、守れなかった。理不尽な暴力の前に、右近は無力なまま、彼女を失ったはずだった。 生きる意味も、死ぬ理由さえも見失い、ただ死に場所を求めて泥にまみれた山道を歩き続ける右近。混濁した意識の奥では、覚えのない前世の記憶が、ちらちらと揺らめいては消えていく。 (もう、いい。ここで終わりにしよう) そう思った刹那、山霧の向こうに、懐かしい人影が揺れる。咲良――そのはずのない姿に、右近は声にならない声で呼びかける。 だが、その幻影の先に現れたのは、姿かたちの定まらぬ「仏の仮の姿」であった。仏は、少年の求める救いではなく、あまりにも残酷な真実を静かに告げる。 「咲良は死んでいない」 「お前を生かすため、彼女は自らの手で、九十九堕ちの化け物になった」 「今も、この山の頂で、お前を待っている」 死ぬことすら許されない絶望と、消えぬ希望が同時に少年の胸を貫く。 すすり泣くような山風の中、右近はようやく顔を上げる。死にたがりだったはずのその瞳に、今、初めて違う光が灯る。 ――彼女を、取り戻す。 泥にまみれた足で、少年は九苦山の頂を目指し、初めての一歩を踏み出した。 これは、一人の少年が「死にたい」から「生きて、救いたい」へと歩みを変える、長い長い贖いの旅の始まりである。

連載情報

ウェブ小説

配信言語
小説を読もう
小説を読もう2026/07/20
  • 現在の作品九苦山縁起