あらすじ
シリーズ屈指の知略が光る『存在しない欠落』
高度なデジタル管理社会の歪みを浮き彫りにする『存在しないシリーズ』において、一際異質な「知覚の罠」をテーマにした一編が、この『存在しない欠落』です。
舞台は、人間の呼吸、心拍、体温の揺らぎまでをAIが完全に数値管理する、外界から切り離されたリトリート施設。ある朝、内側から厳重にロックされた完全なる密室で、思想家・阿久津の心拍停止アラートが鳴り響きます。スタッフが部屋に突入すると、そこには大量の血の海と変わり果てた彼の姿がありました。しかし、AIのログには死亡直前の「恐怖による心拍の乱れ」が一切記録されておらず、凪のような平穏の中で数値だけが消滅していたのです。
この完璧すぎる「死の儀式」に棘のような違和感を抱いたのが、冷徹な観察眼を持つ男・久我です。彼は現場の記録を執拗に検証し、不自然な厚みを持つ血痕のムラや、質量を感じさせない監視映像の「影」の不審な動きを見抜いていきます。
本作で描かれるのは、単なる情報の遮断ではなく「情報の置換」という恐るべきハッキングです。AIのバイタルデータを書き換え、精巧な生体ダミーの彫刻を配置することで、「死」という記号を完璧にデザインしてみせた阿久津。「データが死んだと言えば、目の前に生きている人間がいても幽霊だと断じる」世界の盲点を突き、わずかな“塗り残し”から真実を手繰り寄せる、知的な戦慄に満ちたミステリーです。