あらすじ

携帯電話もなかった昭和の時代。都立赤城高校に進学した赤城一の三年間は、不器用で、けれど全力だった少女たちへの恋で満たされていた。 入学手続きの日に一目惚れした、春の光の中に佇む可憐な少女・荒木郁恵。 合唱祭の指揮台で白いブラウスをなびかせ、僕の卑怯さを浮き彫りにした森今日子。 静かな図書室で、冷たい麦茶を介して距離を縮めた新治玉江。 誰もいない夕方の教室で、文化祭の片付けをしながら「壊したくなくて」踏み込めなかった神原恵美。 代々木のスケートリンクで一瞬だけ繋いだ手の温もりと、自分の弱さゆえに逃げてしまった分岐点。 そして、進路に悩む姿や、池袋ロサ会館での打ち上げのざわめきの中で、アイスコーヒーの氷の音とともに胸に刻まれた山本きりことの切ない時間。 一は三年間で何度も本気の恋をした。しかし、そのどれもが実ることはなかった。告白して関係が変わってしまうこと、今ある眩しい時間を失うことが怖くて、いつも一歩を踏み出せずに逃げてしまったからだ。 やがて訪れた卒業式。何も変わらないはずの校門が小さく見える中、一は自分が「振られること」ではなく「大切な日常が終わること」を恐れていたのだと気づく。告白もしなかった、涙も流さなかった。たくさんの言えなかった言葉を胸に抱いたまま、一は未完成の恋たちを置いて、一人で未来へと歩み出した。 それから十年。二十八歳になった一は、相変わらず人生に迷いながらも、小さな平穏の中にいた。ある春の夜、どこにでもある静かな自宅の居間で、台所に立つ妻の後ろ姿を眺めながら、一はふと高校時代の少女たちを思い出す。 もしあの時、誰かに想いを伝えていたら、違う人生があったのだろうか。人生に答え合わせはない。けれど、妻が淹れてくれた温かいお茶を受け取った瞬間、一の口から自然と「ありがとう」という言葉がこぼれ落ちる。 かつて失うのが怖くて好きな人ほど言葉にできなかった少年は、十年を経て「言葉は、相手と生きていくためのものだ」と知る大人になっていた。それを教えてくれたのは妻であり、理解させてくれたのは、あの踏み出せなかった不器用な後悔の日々だった。 人生をやり直せるとしても、きっとまた同じように迷い、同じように言えずに終わる恋をするだろう。あの未完成な輝きこそが、今の僕を作ってくれたのだから。 窓の外に広がる春の夜の匂いは、あの日、置いてきた教室の匂いと同じだった。

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小説を読もう2026/06/14
  • 現在の作品あの日、耳元で砕けた恋の音を、僕はまだ覚えている