あらすじ
「鷹宮怜央! あんた、人の話が分からないわけ!?」
私は社員食堂でいちばん安いA定食を食べていた。
その箸が止まったのは、相沢杏奈の甲高い声が、昼休みの食堂じゅうに響き渡ったからだった。
次の瞬間。
彼女の手にあった飲みかけのアイスコーヒーが、向かいに立つ男の顔へ、容赦なく浴びせられた。
褐色の液体が、やけに整った彼の顔を伝い、洗いざらしの白いシャツの襟元へぽたぽたと落ちていく。
「別れるって言ってるの! 聞こえないの!?」
杏奈の指先は、ほとんど彼の鼻先に触れそうだった。
「あんたみたいな甲斐性なしに、これ以上付き合ってられないのよ!」
鷹宮怜央は、襟元の擦り切れた白いシャツを着たまま、人垣の中心に立っていた。
雨に濡れた野良犬みたいに、黙り込んでいる。
それでも杏奈の怒りは収まらなかった。
彼女は怜央の手からトレーを奪うと、「ガシャン」と大きな音を立てて、味噌汁ごと回収口の脇へひっくり返した。
「あんた、自分の格好を鏡で見たことある?」
「全身合わせたって、銀座で口紅一本買えるかどうかでしょ?」
「一緒にご飯を食べてるだけで、こっちが恥ずかしいの!」
周りでは、誰かが小さく笑い、誰かが目をそらし、誰かがひそひそと囁いていた。
社内の誰もが、彼をただの新人インターンだと思っている。
昼食代を節約するために半額弁当を買うような、貧乏な男だと。
けれど、私は知っていた。
彼は違う。
先週、私は丸の内の本社ビルへ緊急書類を届けに行き、階を間違えた。
そして、噂にしか聞いたことのない役員専用エレベーターの前で、私は見てしまったのだ。
今ここでコーヒーを浴びせられ、一文の価値もない男みたいに罵られているこの「貧乏インターン」が、経済ニュースで何度も見たことのある老人たちに囲まれているところを。
彼らは腰を低くし、彼に向かって深々と頭を下げていた。
そして、口々にこう呼んでいた。
「怜央様」
その瞬間、私は悟った。
相沢杏奈は、貧乏男を捨てたのではない。
彼女は、自分の足で金の山を蹴り飛ばし、私の前へ転がしてくれたのだ。