あらすじ
師である前住職の遷化を受け、私は山間の集落、宇江野の久昌寺に新住職として赴任した。
寺男の戸沢久作から、二冊の過去帳のことを聞かされる。一冊は通常の過去帳。もう一冊は、歴代の住職が「余白の方」と呼んできた帳面だった。
年に一度、お盆の前に、新しい戒名が一行、書き加わる。書き手は分からない。書かれた戒名の主が、誰なのかも、分からない。
書き写してはならない。声に出して読んではならない。読まないでいると、書き加わる間隔が、早まる。
赴任した夜、葉に一行、戒名が増えた。お盆の前ではなかった。墨は、まだ湿っていた。
戒名は、八文字。
春光院、妙浄照、信女。
檀家総代の沼田仁平はその戒名を声に出して読んでしまい、その夜から眠ったまま唇だけが動き続けるようになった。役場の戸籍担当の水戸卓也は、過去十年の戸籍と帳面の名前を一度も一致させられなかった、と語る。集落最年長の遠野マサは、口を、開かない。
久昌寺の本堂の献灯台に、誰も立てていないろうそくが、灯っていた。脇には、前住職の筆跡で、こう書かれた紙が置かれていた。
「書き手は、寺の中におります。書かれる順を、止める方法は、ひとつしか、ございません」
書き手は、誰か。書き手は、何か。書き手は、何のために、戒名を書き加え続けているのか。
私が、書き手の正体を知ったとき、葉の最後の頁には、私の俗名が、書き加わっていた。
登場人物
藪原 慶尚(やぶはら けいしょう)/35歳/東京出身
新任住職。一人称「私」。修行時代の師である真海和尚の遷化を受けて、久昌寺の住職を継ぐべく宇江野へ赴任する。冷静に観察し、声に出さずに戒名を読む。祖父は東京の明治の商家・寿光院の家系。
戸沢 久作(とざわ きゅうさく)/74歳/宇江野
寺男。境内脇の小屋に住み、前住職の真海に長く仕えた。前住職の遷化の朝、最初に発見した者。引き継ぎの細部までを知るが、肝心のことを最後まで自分の口からは語らない。
真海 宗道(しんかい そうどう)/享年76/久昌寺二十七世
慶尚の師。昨年の冬至、十二月二十二日に庫裡の居室で遷化。代々の住職の務めとして、ある重い責任を密かに引き受けていた。死の四ヶ月後にも、湿った墨で書かれた紙が、本堂に現れる。
沼田 仁平(ぬまた じんぺい)/65歳/宇江野
檀家総代。母方の生家は廃村・雪笠の旧家「春光屋」。家系の中に、お墓を建ててもらえなかった一人がいる。声に出して戒名を読んでしまったその夜から、眠ったまま唇だけが八文字を動かし続ける。
水戸 卓也(みと たくや)/50代/役場分庁舎
戸籍担当。毎年お盆前に、戸籍の写しを久昌寺へ届けてきた。十年、二十年、三十年前、明治三十六年の戸籍まで遡って、前住職と一緒に、書き加わる戒名の主を探し続けてきた。
遠野 マサ/88歳/宇江野
集落最年長。家系と土地の古いことを最もよく知るとされるが、本作中で慶尚と直接の言葉を交わすことはない。