あらすじ
バレンタインの日、夫の田辺怜司は「会社で急な会議が入った。遅くなる」と言った。
けれど夜八時半、スマホに入れていたスマートドアベルのアプリから、異常検知の通知が届いた。
画面を開いた瞬間、東京・北区にある古い分譲マンションの玄関で、怜司がひとりの女を壁に押しつけてキスしているのが映った。女は両脚を彼の腰に絡め、ほとんどぶら下がるようにして抱きついていた。
「怜司、ここって奥さんのお母さんが遺した部屋でしょ。もし急に来たらどうするの?」
しばらくして、怜司はようやく女から顔を離した。その声には、隠す気もない侮りが滲んでいた。
「心配いらない。凛は今ごろ店で手いっぱいだ。それに、仮に見られたところで何だっていうんだ。あいつには実家もないし、子どももいない。俺以外に、誰があんな女を相手にする?」
私は画面を拡大した。
女の顔がはっきり見えた。
先週、うちの池袋店に入ったばかりの新人、三浦翠だった。
画面の中で、怜司は当然のような顔をして笑っていた。私はそれを見つめながら、静かに笑った。
この世に男が足りないわけじゃない。
足りないのは、信じるに値する人間だけだ。
田辺怜司との十年の結婚生活は、どうやらここで終わりらしい。