あらすじ

平成の幕開けとともに、日本はまだ見えざる闇の底へと静かに沈み始めていた。バブルの残光が薄れゆく地方都市の片隅で、一人の高校生が描いたたった一枚の絵画が、世を狂わせた。 その名はトオル。十七歳。目立たぬ影のような少年だった。彼は学校の絵画コンクールなどには一切興味を示さず、ただひっそりと、一般公募の芸術展に一枚のキャンバスを送り込んだ。 タイトルは『深淵の海の底で眠る神』。 クトゥルフ神話を題材としたその絵は、悍ましく、凄惨で、言葉にできないほどの恐ろしさを持っていた。あまりにも生々しく、あまりにも現実的で、まるで作者が実際に深淵の底で眠る古の巨神を、目の前で見つめて描いたのではないかと思わせる出来栄えだった。 それを見た者たちは、例外なく証言した。 「本当にいた。海の底に、巨大な触手と、無数の目を持つ神が眠っていた……」 「絵の前で、幻覚が襲ってきた。冷たい海水が肺に満ち、太鼓の音が頭蓋を震わせる……」 「私は、目覚めようとするその存在の視線を感じた。もう、逃げられない……」 一枚の絵がもたらした狂気は、美術界を超え、怪奇小説家、ホラー映画監督、クトゥルフを愛する者たちの間に、静かなる伝説として広がっていった。誰もが知るようになった。トオルという高校生は、単なる画家ではない。彼は深淵を覗き、深淵もまた彼を覗き返したのだ。 これは、禁断の画家・トオルの始まりの物語。 筆が触れた瞬間、現実と狂気の膜が薄くなり、旧支配者たちの門がわずかに軋む音を立て始めた、忌まわしき序章である。 ―― 深淵は、すでに目覚めようとしていた。

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カクヨム
カクヨム2026/06/28
  • 現在の作品深淵の観測者 ―門にして鍵、鍵にして門―