あらすじ
結婚三周年の記念日。
僕は一週間前から、銀座にあるフレンチレストランの個室を予約していた。テーブルには白い薔薇とキャンドルを並べ、神崎清音が好きなイチジクのデザートワインも用意していた。
僕は彼女の向かいに座り、手の中でベルベットの指輪ケースを握っていた。中に入っているのは、僕が自分でデザインし、自分の手で磨き上げた銀杏の葉の結婚指輪だった。
三か月かけて作った作品だった。指輪の内側には、たった一言だけ刻んである。
清音、余生を君に。
せめて今日くらいは、彼女が僕をちゃんと見てくれると思っていた。
けれど清音は、冷めた顔でグラスを置き、僕の動きを遮るように手を伸ばした。
「凛也。毎年、贈り物を用意するのはあなたでしょう。今年は先に、私からのものを見て」
僕は一瞬、言葉を失った。
清音はバッグから白い箱を取り出し、僕の前へ押し出した。箱が開いた瞬間、僕の手は宙に浮いたまま固まった。
中に入っていたのは贈り物ではなかった。
二枚の書類だった。
一枚は、すでに必要事項が書き込まれた離婚届。
もう一枚は、彼女と江藤蓮司の婚姻届だった。
僕はその二枚の紙を見つめた。喉の奥が、何かに塞がれたようだった。
「清音……これは、どういう意味?」
神崎清音は僕を見上げた。声は、まるで何でもない用件を告げるように平坦だった。
「蓮司が帰ってきたの」
彼女はそこで少し間を置き、僕が理解できていないと思ったのか、さらに続けた。
「子どものころ、私は蓮司と約束したの。いつ、どんなときでも、彼が戻ってきたら私は彼の隣に立つって。今はあなたと結婚しているけれど、人は約束を守らなきゃいけないでしょう」
清音は離婚届を指先で軽く叩いた。
「これはあなたの分。署名して、持っていって。あなたが署名すれば、私は蓮司との婚姻届を出せる」
彼女の視線が、僕の手元にある指輪ケースへ落ちた。
「あなたが用意した指輪は、ちょうどいいから置いていって。私と蓮司への結婚祝いにするわ」
僕は指輪ケースを握りしめた。ケースの角が掌に食い込み、指の骨が白くなるほど痛んだ。
五年だった。
神崎宗一郎前会長が亡くなる前、僕に清音を五年間頼むと言った。僕は、その約束を守ってきた。
そして、五年の約束も、もうすぐ終わる。
今ならまだ、僕は損切りできるのかもしれない。