あらすじ
大和の朝は、いつも白かった。
山の端から昇る光が宮の甍を照らすころ、私はまだ乾ききらぬ木簡を前に、昨夜書き写した神の名を数えていた。名は力であり、名は境であり、名は時に、古い民を沈黙させる刃でもあった。
「出雲へ行け」
そう命じたのは、宮の記録を司る老人だった。老人は私の前に一束の木簡を置き、細い指でその端を叩いた。
「国を譲った神々の名を確かめよ。大国主の系譜、事代主の言葉、そして逃れた神の行方をな」
逃れた神。
私はその言葉を胸の奥で繰り返した。記録に残らぬ神は、いずれ神ではなくなる。ならば、逃れた神とは、まだ名を奪われていない神のことではないのか。
出雲へ向かう道は、海を北に見ながら因幡を抜ける。白兎の話を知らぬ者はいない。だが、老人は低い声で言った。
「あれは子どもに聞かせる話ではない。道を知る者だけが、あの兎の意味を知っている」
その夜、私は初めて月を見た。
大和の空に浮かぶ月は、ただ静かだった。だが、これから向かう山々の奥では、月に名を与えず、ただ仰ぐ民がいるという。
神の名を集める旅が、名のない神を探す旅になるとは、そのときの私はまだ知らなかった。